魏書・夫余伝の『麻余死、其子依慮年六歳、立以為王』という記述によると、依慮は麻余の子であり、王に立てられた時、6歳でした。すでに、麻余は卑弥呼と推定しましたから、依慮も壹与だと推定することが可能ですが、魏志倭人伝によると卑弥呼は夫も子もないことになっています。つまり壹与は、卑弥呼が238年頃に倭国に渡って来る前に半島で生まれたと考えられます。
247年の卑弥呼の死後、倭王に即位した卑弥弓呼素に対する反乱と追放の経緯を考慮すると、13歳で倭王になった壹与の即位年は249年頃と推定され、生まれた年は237年頃と導き出されました。卑弥呼は倭国に渡って来る際、わずか1~2歳の乳飲み子を残して来たことになります。このことが事実だとしたら、魏の明帝が卑弥呼に対し『慰められるべき、哀れな人』と言っていることも改めて納得できるのではないでしょうか。
さて、249年頃に倭国に渡って来た依慮は、壹与と名のりました。<いりょ>から<いよ>に転化したとも考えられますが、統合という意味の「壹」と、与えるという意味の「与」という字が当てられ、壹与(統合を与える)という名になったのかもしれません。
日本書紀の神代(上)《天の岩屋》に、壹与が倭王に即位した様子が書かれていると推測できる箇所があります。『日神が、天の岩屋におこもりになるに至って、諸々の神々に、厚く徳をたたえる詞を申し上げてお祈りさせた。すると、日神が岩戸をわずかに開けて外を窺われた。この時、天手力男神が戸を引き開けたので、日神の光が国中に満ちた。諸々の神たちは、大いに喜んだ』
このように、比喩的な表現ではありますが、卑弥呼の墓の前で、王の再生儀式を執り行い、新女王「壹与」が誕生した時の国民の喜ぶ様子が伝わって来ます。壹与は、二代目・天照大神になったのです。
倭王・壹与の宮殿はどこにあったのでしょうか。卑弥弓呼素の追放後、卑弥呼が住んでいたと思われる吉野ケ里遺跡では、人々の営みの痕跡が突然途絶えています。そこで、最も注目している場所は、筑紫平野東部の福岡県朝倉市にある「平塚川添遺跡」です。このあたりは、奴国の領域だったと考えます。
鳥越憲三郎の『弥生の王国、中公新書』によると、『この遺跡は、弥生中期後半から古墳時代初頭におよぶ集落であることが判明していて、環濠は、弥生後期後半から終末期のもので、古墳時代に入って埋没している。また、大きな高殿らしき遺構も発掘されているので、王が住んでいた可能性もあるが、王墓に匹敵する遺構は発見されていない』ということです。
この「平塚川添遺跡」を、宮殿があった場所に比定したいと思います。卑弥弓呼素の追放後、筑紫平野以北にあった「奴国」「邪馬壹国」「狗奴国」など複数の国々は、魏政権の関与の下、まさに「壹与」という名のごとく統合されて一つの国になった。そして、邪馬壹国の「邪馬」、奴国や狗奴国の「奴」を採り入れて邪馬奴国になった。その新しい国のちょうど中間に位置している「平塚川添遺跡」は、統治の場所として最適だった―と考えています。