大韓民国の建国史(157)「漢江の奇跡」牽引した経済企画院誕生の経緯

日付: 2019年06月19日 00時00分

 「不均衡成長政策を通じて、われわれが狙うべき戦術的目標は、次の二つです。第1、2次産業を先に育成しますが、輸出主導型にします。方式は模倣成長政策を通して高度成長を目指します。世界の市場で売れるものを早く模倣して価格を低く策定することで、競争力が確保できます。第二に、組み立て方法でやることです。ラジオを生産しても、われわれが数百の基礎材料を全部作って輸出することはできません。時間は十分あるから、まず部品を輸入して組み立てて輸出する方式を取ります。最初は付加価値が低くても、雇用効果が大きく、輸出量を増やすことができます。利益が蓄積されると、段階的に国産化の割合を増やし、そうすればいずれは純国産のラジオが作れます」
朴正煕議長は熱心にメモしながら頷いていた。ブリーフィングが終わると場内が静かになった。そのとき朴議長が笑顔で席から立ち、振り向いて拍手を力強く打ち始めた。朴正煕に次いで雷のような喝采が沸いた。完成された「最高会議の総合経済再建計画」は経済企画院へ移管され、「5カ年総合経済企画案」と「第1次経済開発5カ年計画」などを策定する基礎となった。
「漢江の奇跡」を成し遂げる牽引車の役割をなした経済企画院(EPB=Economic Planning Board)が創設されたのは1961年7月22日だった。初代院長(副首班)は財務長官から栄転した金裕澤が任命された。宋堯讚内閣首班は、企画院発足に際しての談話文で「以前は、経済政策を策定し、その執行を監督し経済部処を総合的に調整する機関がなかったため、各機関間の有機的な協力が行われず、資源の効率的な使用が阻害された」と指摘、「過去の経済政策が羅列に終わり、組織化し一本化する機能が弱かった欠陥を教訓として、合理的な計画と強力な執行、継続的な調整、計画的な評価の四つの要素が、実際の運営面に反映されて経済が実質的に成長発展することを期待してやまない」と強調した。
経済企画院は新設されたものではなく、建設部が拡大、改編されたものだった。この建設部は後の建設交通部とは関係のない部署だ。建設部は、民主党時代の復興部を革命直後に名前を変えたものだ。その経緯はこうだ。軍事革命の直後、復興部長官に任命された朴基錫(2軍司令部工兵参謀)大領は、調査課長の丁哉錫(後に商工部長官、交通部長官、副首相兼経済企画院長官)を呼んだ。 
「先ほど軍事革命議員会から明日の朝8時、開催される会議に復興部を画期的に拡大、改編する案を報告せよ、との緊急指示を受けたが、今晩中にどうすればいいか」丁課長は内心で「こんな重要な案件を一晩で出せとは革命委員会とは全く荒々しいところだな」と思った。幸い、部内で似たような研究をしていた資料があったため慌てることはなかった。
「代案はすぐ作れますが、正式の案件として作るのは難しいです。しかも、事案が重要であり幹部会議で検討が必要であるため報告を1日延ばしてほしいです」「延期は難しいから徹夜をしてでも所信を持って作成してブリーフィングをしましょう」
丁哉錫は以前から準備しておいた再編案を持って近くの旅館へ行き、「1案、経済企画院」「2案、開発部」と2枚のチャートとしてまとめた。民主党政権のときも、中央企画機構が必要だという考えで、財務部予算局長の李漢彬、復興部企画局長の李起鴻ら4人で、政府機構改編小委を稼働してきた。そして、丁哉錫はこの小委の幹事だった。


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