鈴木 惠子
ある日、日本書紀の神代(上)を何度か読み直していた時のことでした。魏書・東夷伝の韓条に記されている「邑君」という言葉が、日本書紀にも記されていることに気づきました。魏書によると、「魏朝の景初年間(236~239年)のこと、明帝は極秘のうちに、楽浪・帯方の公孫派官僚を平伏させた。そして、諸韓国の臣智には邑君の冊封印綬を賜与した」とあります。邑君とは、「区域の君主」という意味です。公孫氏討伐後の韓地は非常に乱れていた様子で、民衆を統制するための明帝の苦心が忍ばれます。
一方、日本書紀の神代(上)一書・第十一には、「天照大神は、粟・薭・麦・豆を畑の種とし、稲を水田の種とした。それゆえ、更に天の邑君を定められた。【又因定天邑君】」とあります。
このように、倭国でも邑君という官位を定めたことが確認できたことから、日本書紀の神代(上)は、公孫氏が討伐されたあとの倭国の出来事が神話として記され、卑弥呼は「天照大神」、卑弥弓呼素は「素戔嗚尊」として登場していることがわかりました。そして、《素戔嗚尊の誓約》の記述から、二人はすでに韓半島内で出会っていて、お互いの素性を知っていた可能性がありそうです。
「素戔嗚尊」という名前の意味は、何もないという意味の「素」と、戦争という意味の「戈」という字を重ねている「戔」という字が入っていることから、「嗚呼哀しいかな、何度もの戦争で何もなくなってしまった地位の高い人」と解釈されます。まさに、高句麗王「憂位居」に重なるのではないでしょうか。
倭国中が服従せず、追放された倭王・卑弥弓呼素のその後の様子については、日本書紀の神代に、新羅国の「曽尸茂梨」に行き、その後、出雲国に行った。あるいは、出雲国に至り「八岐大蛇」を退治した後、根の国に行った、とあります。卑弥弓呼素の次に倭王に即位したのは、壹与という13歳の女性でした。
「壹与」という名が表れる史料は、「魏志倭人伝」の次の記述のみです。「卑弥呼と同姓の女性で、壹与という者が、年は十三才であったが王となった。国は遂に安定した。祭りごとなどでは、壹与を強く励ました。祭りごとなどが元の状態に戻ったことにより、天子の朝廷に表敬訪問するために、壹与は、倭の大夫で率善中郎将の『掖邪狗』等二十人を派遣し、男女の奴隷三十人、白球五千孔、青い大きな勾珠二枚、異文雑錦二十匹を献上した」
また、晋書・四夷伝・倭人条に、「泰始年間(265~274年)の初め、倭の女王が翻訳書を重ねて使者を遣わし貢物を納めた」とあるのと、日本書紀・神功皇后六十六年に、「この年は、晋の武帝の泰始二年(266年)である。晋の国の天子の言行などを記した『起居注』に、武帝の泰始二年十月、倭の女王が通訳を重ねて貢献したと記している」とありますが、この貢献した倭の女王とは、壹与のことです。壹与の即位により倭国は遂に安定し、人々に強く励まされながら祭りごとなどを執り行い、魏や晋の政権に朝貢していたのです。