大韓民国の建国史(156)第二次産業重視の不均衡成長と輸出主導型の開発戦略

日付: 2019年06月12日 00時00分

 この計画も2カ月後に発生した5・16クーデターで葬られるが、この計画案を朴正煕が目標成長率を上げ係数調整して、第1次経済開発5カ年計画として仕上げる。
「革命政府が第2共和国の経済開発5カ年計画を模倣したとよく言うのですが事実でありません。私たちは、これらの計画を検討はしたものの、利用価値がなかったため、新しく計画を作りました」と鄭韶永は回顧する。
彼らが参考にした資料は、韓国銀行の長期総合経済開発計画、最高会議企画委員会の長期開発計画などがあった。3人は約2週間、基本戦略判断を決めるのに没頭した。まず、均衡成長政策をとるか、不均衡成長政策をとるかについて討論を行った。財源を産業分野別に等しく分配する均衡成長政策は、韓国の実情に合わないことには、直ぐ合意がなされた。鄭韶永はこう整理した。
「乞食の服を縫うようにしてはなりません。資本の回転速度が速く、少しの投資でも速く利益を出せるよう、資本係数が小さい分野をまず攻略すべきです。教育に投資すれば20年後効果を得ます。農業に投資したら種子改良だの、水利事業だので、少なくとも10年はかかります。工業への投資は工場を建設し生産するのに5年で十分です。早く富を増やすには1次産業や3次産業はすまないが、2次産業にまず投入する方法が良いでしょう。2次産業で富を増やしてから1次・3次産業に投入する不均衡成長政策を決めましょう」
成長戦略が決まるや、成長率と投資率を算定した。基準年度の1961年の1人当たりGNPは83ドル、国内貯蓄率は3・9%、投資率13・1%、輸出4087万8000ドル、輸入は3億1600万ドルという惨憺たる経済規模だった。民主党の計画は年5%の成長を目標にしたが、彼らは年7・1%と策定した。韓国社会は経済開発への期待が高まり、朴正煕将軍がこの3人に植え付けた意志と信念が作用した結果だった。
利用可能な資金のうち、投資資金に活用される割合である「総利用できる資源に対する投資の比率」は21%、総所得のうち貯蓄を引いた「消費率」は79%、国内貯蓄率は7・2%などの目標数値を具体化した。この計画の最も目立つ特徴は、政府の役割を特に強調した部分だった。
「生産手段を政府が掌握し計画経済をしていた共産主義とは違って、私たちは、政府が主導するものの資本主義の経済原理を生かす政府主導の市場経済体制を作って見たのです。一種の混合経済体制でした。2次産業の資本形成に対する政府の役割を飛躍的に高く策定しました。従来の非効率的な投資の原因を、投資財源の配分と管理を全的に民間人に委託したということと、価格機構の媒介機能を自由放任の形で放置したことであると捉えました。市場経済をきちんとやれない国が、無条件に先進資本主義諸国の市場経済を真似したため、悪循環が続いたのです。私たちは、報告書を通じて、このような民間主導の経済運営を批判しながら、国家主導の経済運営の必要性を強調しました。
作業の最終段階で、ソウル商大で講義していた朴喜範(後に文教次官を歴任)教授も参加した。7月中旬、確定された案の公式名称は「総合経済再建計画(案)」だった。4人は7月20日頃、最高会議の全体会議で報告会を行うようになった。朴正煕議長をはじめ、各部処の幹部全員が参加した中、鄭韶永博士がチャートを示しながら説明した。朴喜範教授は、経済用語を説明した。(つづく)


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