たんぽぽ
隣の女の子が早く食べなさいと右肘でつついたので、あわててご飯を食べ始めた。食器は茶碗から皿まで全てアルミニウム製だった。ご飯とスープがあり、皿には3種類のおかずが盛り付けてあった。この昼食にまた驚いた。
かわいい小さい茶碗には白いご飯が、昆布スープの真ん中にはゆで卵の半分が、おかずのお皿には小さいイワシ煮一つと塩漬け大根少しとジャガイモが盛り付けてあった。
人生初の外食(以前に肝炎で入院した時に食べたと思うが、覚えがないから)で、我が家ではかなり特別であるご飯を保育院初日に食べたので、その日の昼食は今も鮮明に覚えている。今日は何か特別な日なのかなと思いながらご飯を食べた。美味しかった。
実家では、白いご飯は誕生日など特別な日にしか食べられない。普段は配給の約10%が白米で、金日成の誕生月である4月には約30%の白米が配給されていた。
とはいえ、配給される量はいつも指定より少ない。特に白米はもともと少ない量なのに、比率より少ないので、配給の日には母が秤で計って一人で小さい声でブツブツ文句を言っていた。北朝鮮の大方の家庭には秤があり、それぞれ計った重さが違うとけんかすることが結構ある。
母は毎回、配給された白米を三つの袋に分けた。一つ目の袋には、父が病院から外出許可が出た日曜日(北朝鮮は今も週1回、日曜だけが休日)に、家族みんなで食事するときの白米を入れておく。父だけに白いご飯を出すと、食事に手をつけなかったから、家族全員の分を取り分けておくのだ。
二つ目は、家族の誕生日に雑穀と混ぜる分と、誰かの体調が悪いときにお粥にする白米を入れる袋だった。私はすぐ扁桃炎になったりしたので、白米粥は家族の中で私が一番多く食べたと思う。塩だけで味付けがしてあって、美味しくて別格だった。
三つ目は、二つの袋に分けたあとの残りを入れておくもので、それを売ってお金に換えていた。父の薬を購入するため、雑穀より高く売れる白米を近所の知り合いに売っていた。その人は日本から来た人で、日本にいる誰かから経済的援助を受けていた。
白米を売ったお金で砂糖を買い、大きな病院の薬製課の課長にブドウ糖点滴液を作ってもらったりしていた。もちろん不正に製造してもらったのだ。砂糖は購入が難しかったが、砂糖を買って頼まないとダメらしくて、母はいい砂糖を買うために苦労していた。
課長は自分の当直の夜にブドウ糖液を作って持ってきた。母は仕事の帰りが遅くても、父のいる病院に持っていった。当時、冬はとても寒くて普通にマイナス20℃くらいになった。母は仕事から帰ってから、適当に夕食を済ませ、コートの中に点滴びんを隠すように胸に抱えて持っていった。極寒でもビニール靴を履いていたので、母が病院に行く前の食事をしている間に靴を紙に包んで一番暖かい床に置いておいた。あとからビニール靴は暖めてもすぐ冷たくなるのを知って、がっかりしたものだ。
そんな貴重な白米ご飯が、しかもお粥ではなく食べられるなんて、本当に驚いた。それからは、少しくらい嫌なことがあっても保育院に行くのが好きになった。
保育院に通い始めて2週間後の日曜日に、ちょうど父との面会許可が出て祖母と一緒に報告に行った。「何が一番楽しいか」と聞く父に、毎日週6回食べる白米ご飯だよ、と答えた。次は、と聞く父に、月曜日にはスープに半分のゆで卵が入っていると答えた記憶がある。
日本に来てお店にあふれている卵を見て、値段の安さに驚いたものだ。北朝鮮では卵はとても高価で、誕生日に四分の一に切ったゆで卵があると幸せいっぱいだった。滅多にゆで卵は食べられなかったのだ。母が作るのは広く伸ばした薄い卵焼きが多かった。
当時の北朝鮮では幼稚園まで昼食が出て、金日成の誕生日には半分に切ったゆで卵が二つもスープに入っていた。
家より暖かくて、家で食べるより美味しいものをたくさん食べられた。それら全てを金日成がくださったと、先生たちは毎日毎日言っていた。その有り難さに心を込めて敬礼しましょうと言われるたびに嫌悪感がなくなってきて、本当にありがたく思えてきた。(つづく)