カーターの卑屈な対北政策
道徳主義者のカーターは、朴正熙政権の人権問題に対して非常に批判的だった。米国議会もこの点では同じだった。1976年4月、朴正熙が韓国のクリスチャンを逮捕した事件が起きた。それに対して米上下院議員119人が行政府へ「人権弾圧をしている韓国に、軍事援助を続けないこと」を求める書簡を送った。時を同じくして、コリアゲートと呼ばれる朴東宣ロビー事件も起きた。韓米関係は、最悪の方向に向かって走っているようだった。
金日成は、カーターが大統領選挙戦で、駐韓米軍の撤退を選挙公約として提示した後、米国への批判を自制し、平和協定攻勢と駐韓米軍撤収公約の履行を要請した。金日成はベトナム戦争が共産勢力の勝利で終息した1975年春以来、対南挑発のため軍事力を前進配置しはじめた。しかし1976年8月18日のポプラ事件により、当時の米国行政府(フォード政権)が、駐韓米軍の撤収を踏みとどまらせる原因を提供した。
ポプラ事件とは、1976年8月18日、38度線近くでポプラの剪定作業を指揮していた米軍将校2人が、北韓軍兵士30人から斧や鉄パイプで攻撃され亡くなった事件だ。事件で死亡したアーサー・ボニパス大尉は顔も確認できないほど血まみれになって死んだ。米国が報復として行ったのは、問題となったポプラの木を根元から切り倒すという措置だった。筆者はこの点で今日の米国の方が、当時の米国よりもはるかに強大な国だと考える。多くの人々が昔の米国の方が強大だったというのとは正反対の立場だ。2012年、米軍将校2人が北韓軍兵士から斧で殴り殺される事件が起きたら、米国は木の根元を切る程度で済ませるだろうか。
いずれにせよ、韓国の安保状況が不透明な状態にある中、カーターは駐韓米軍の全面撤退を実行に移そうとした。カーターは自分の撤退政策を実現するため、北韓側が米軍のヘリコプターを撃墜させた事件に対しても非常に卑怯な行動をとった。1977年7月13日午後8時30分(米国時間)、ヘリコプターが撃墜されたとの報告を受けたカーターは、ホワイトハウスの裏庭でオペラを鑑賞していた。休戦ラインの国連軍側の観測所建設のため、平沢からセメントを積んで飛び立った米軍のチヌークヘリが、誤って軍事境界線の北側に着陸。韓国軍は軍事境界線を越えないように警告射撃をしたが、ヘリ側はそれに気づかなかった。着陸したのが北韓地域であることを知ったパイロットはヘリを急いで離陸させたが、北韓軍が重機関砲を乱射して撃墜させたのだ。
カーターは「事故は、飛行の誤りで起きたもので、この誤りを北韓側に周知させるため努力している」という、極めて低姿勢の反応を示した。米国は、低姿勢で北韓に死傷者と生存者の引き渡しを要請し、北韓は速やかにそれに応じた。事件発生から56時間後、北韓は生存者と遺体を国連軍側に引き渡した。軍事境界線で起きた紛争としては前例のない速やかな解決だった。こういう迅速な解決の裏には一つの明確な理由があった。相互間の距離を縮めようと努力しているカーターの米国と、米国への接近を試みた金日成の努力の結果だった。
駐韓米軍撤収の名分を傷つけたくないカーターと、米国との直接対話の道を模索していた金日成の米国への関心が、思わぬ形で結ばれたのだ。
朴正熙時代の韓国の人権問題
国ごとに置かれた独特な立場がある。すべての国が同じ水準の民主政治はできないし、経済発展の程度も違う。民主主義政治ができればいいのだが、朴正熙在任中の韓国がジェファーソン式の民主主義を敷くことは経済的にも安保的にも容易なことではなかった。朴正熙はもちろん、独裁者だった。そして韓国内の反朴正熙勢力と米国は、朴正熙の独裁と人権蹂躙に対して文句をつけた。
米国務長官のサイラス・バーンズは回顧録で「韓国の問題が提起されるたびに、人権問題がつきまとった。だが、重武装した北韓軍と韓米連合軍が絶え間なく対峙した状態は、常に潜在的挑発の可能性を含んでいた。ソウルからわずか35マイル離れた所では、住民への絶対的な統制が加えられており、自由はまったく考えられない地が存在するという事実をいつも念頭に置かざるをえなかった。
(つづく)