【新連載】1800年にわたる韓日交流史をたどる<第1回>(上)

日本に残る渡来人の足跡 
日付: 2019年03月13日 00時00分

大阪の百済・新羅・高句麗橋

韓日の交流は1800年に及ぶ悠久の歴史を持つ。しかし、両国民に対する互いの理解度は長い交流の歳月にもかかわらず足踏み状態が続いている。今もなお、100年前の日本による韓国植民地時代の苦しみが長い親善の月日を退色させており、それゆえ相手に対する誤解だけが積み重なっているのだ。過去最悪の冷え込みと言われる最近の韓日関係、我々が知らなかった韓日間のストーリー、そしてそこに存在していた人々の話を通し、両国が仲良く過ごすべき理由を探っていきたい。記者は昨年夏から今年1月まで、日本の地における韓半島の人たちと、韓国の中の日本人の痕跡を直接訪ねた。その取材記録を連載で公開していこうと思う。(ソウル=李民晧)

 新羅橋の謎

大阪には新羅、百済、高句麗という韓半島の三国時代の国名がついた橋が存在している。そのうち百済と高句麗橋は現存しており、新羅橋は本来の名前を失った。
しかし、名前を失った新羅橋が対内外的に最も有名税を払っているといえる。韓国の人々も大阪に行くと必ず訪れる心斎橋こそが、まさに新羅橋だ。
日本人が心斎橋と呼ぶこの場所が、いつからなぜ名前を変えたのかは研究調査で解明する必要がありそうだ。ここが新羅橋だったという事実は、日本人も認めるところだ。
『中学校歴史資料―大阪府版(帝国書院刊行)』の”大阪の歴史”編には、大阪各地に残された渡来人たちの地名を紹介しながら、心斎橋について「かつては新羅橋」と明記している。昔の地図にも新羅橋の名称が残されている。
1576年に制作された日本の戦国武将・織田信長による石山本願寺軍攻撃配置図(織田信長軍、石山本願寺軍攻撃配置図、奥田所蔵)にも描かれている。さらに、1230年頃の大阪古地図には、新羅人と百済人がそれぞれ集まって暮らした村・新羅州と百済州の二つの国の橋が鮮明に表示されている。
現在の心斎橋はにぎやかだ。屋台と居酒屋が軒を連ねている。商店街入り口の道頓堀川岸でみられるグリコの看板は大阪の象徴で、その前は記念写真を撮る観光客で常にあふれている。道頓堀もやはり、韓国と関係が深い。
17世紀に完工された道頓堀は、自然の川を運河に整備したものだが、当時の工事責任者が百済の末裔だった。
しかし、道頓堀で会った観光客の中に、この歴史を知る人はいなかった。韓国人であれ日本人であれ、老若男女問わず全く知らないという反応だった。心斎橋が新羅橋だったということも、道頓堀の建設責任者が百済の末裔だったという史実も知らなかった。

金融の中心地 高麗橋

大阪中央区、心斎橋駅からわずか3駅離れた場所に高句麗の橋がある。北浜駅近隣にある高麗橋だ。高句麗の本来の名前は高麗だ。後日誕生した高麗と区別するため、高と麗の間に句の字を挿入した。日本では今も高句麗は高麗(こま)で通じる。
高麗橋は大阪の重要地点だ。歴史的には「大阪最初の鉄橋」であり、関西地方の道路の里程計算の原点となる里程元標がある。現在も近くに大阪証券取引所があり、名実ともに金融の中心地だ。
高麗橋は本来の名称がその独自性を証明するかのごとく、韓半島と密接な関係性を持っている。橋の東側には高句麗の使節と商人たちが宿泊する宿所「高麗館」があった。16世紀、豊臣秀吉時代には朝鮮との交易の拠点となっていた。大阪の玄関口であり、朝鮮王朝が江戸幕府に派遣した使節団・朝鮮通信使が立ち寄る場所だった。その昔、我が先祖たちが「おいそ(いらっしゃい)、おいそ」と声をかけていたことを連想するのにぴったりの場所ではないだろうか。

天王寺区は百済の村

高麗、新羅、百済の中で大阪と最も密接だった国は百済だ。百済大橋。大阪南部の東住吉区にあるこの橋の近隣には、百済バス停留所、百済駅、百済時計店など、随所に百済の名称がある。現在も百済の名称を使用し続けていることに驚く。確かに、古代からこの一帯の地名は「くだら郡」、即ち「百済郡」だった。
現場で興味深い事実を発見した。百済大橋の下に流れる河川の名称が駒川だということだ。駒は、「高句麗」の日本式の発音と同じだ。これは新羅を指す新羅(しらぎ)が白木(しらぎ)に変わった現象と同じだ。だとすると、駒川の近くには高句麗と百済の渡来人たちが仲睦まじく肩を寄せ合って暮らしていたということになる。

天のいたずらか、血縁の引き寄せによるものか、そこからさほど遠くない位置に日本最大のコリアタウンがある。生野コリアタウンと鶴橋市場だ。考えてみると、この歴史もまた妙だ。1400年前に海を渡った古代渡来人たちと、100年前の日本植民地時代に玄界灘を渡ってきた在日同胞たちが隣村で暮らしていたのだ。時代を越え、先祖とその子孫がご近所さんだったという事実に鳥肌が立った。
歴史的に、百済と日本は不可分の関係だった。両国は共に血を流した血盟だった。百済王朝滅亡(660年)後の663年、百済復興軍と日本連合軍は羅唐連合軍と闘ったが、敗戦した。この時、数多くの百済人たちが故郷を離れ、日本列島各地へと亡命した。664年には百済義慈王の息子である善光(日本名:ぜんこう)が、現在の大阪天王寺区にある細工谷遺跡付近に土地を譲り受け、大阪を亡命王族の拠点とした。1996年に発掘されたこの遺跡からは、百済の土器など、それを裏付ける品が大量に出土した。大阪は明らかに百済の渡来人たち、中でも王族の子孫たちが暮らしてきた地域だ。(写真=大阪各地に残る韓半島由来の地名)
(下)に続く=http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=85760&thread=01r05

 


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