ノースコリアンナイト~ある脱北者の物語~4 トウモロコシ米と保育院入所

日付: 2019年02月27日 08時06分

たんぽぽ

 お腹が空いても、お昼ご飯はない。2番目の姉は幼稚園でお昼が出る。人民学校(小学校)に通う兄の分のおにぎり1個だけで、私は遅い朝ご飯を食べ、お昼は薬だけ飲んで夕食をみんなで食べる。
朝ご飯は雑穀米で、私のだけが消化がよくないからと白米のお粥だった。
夕食は大体トウモロコシ粉のお粥だった。配給の70%が何の加工もしていない雑穀米で、トウモロコシを砕いたトウモロコシ米と濃い茶色の小麦米とジャガイモがメインだった。トウモロコシ麺と小麦粉がたまに少し配給されると、誰もが喜んだ。
トウモロコシ米は手間がかかった。水分が多くて保管が難しく、洗うときに流されてしまう。不純物も多いし、ゆっくり炊かないと口の中が痛くなるのだった。
配給の米は種類に関係なく小さい石が多く入っていて、内側に階段のような段差があるボールでゆっくり丁寧に何回も洗わないと、口の中で石がゴロゴロしてしまい食べられない。
このころ、私は昼間に翌朝に食べるトウモロコシ米を洗っていた。家族の誰かが石を噛むと朝の食卓の雰囲気が悪くなるし、私自身が石を噛む口の中の感覚と音が嫌いだった。雑穀米は前日の夜に洗って水に浸けておくと、ご飯が少し柔らかくなる。母は仕事で疲れているし、停電で油灯台の明るさでは小さい石がよく見えないし、朝は忙しいからゆっくり洗えないと考えて昼間に洗うことにしたのだ。母が夜に仕事から帰って夕食の準備にとりかかるとき、雑穀米が洗ってあるのを見て、微笑むその光景も好きだった。
台所に行って母が作った肝炎に良いという黒いインチンコウ(茵陳蒿)を、1日2回なめていた。このエキスはとても苦くて、なめては水を飲んでを繰り返すと、水でお腹がいっぱいになってしまう。窓から外で遊んでいる子どもたちを眺めながら、薬をなめていた。
その時、私の名前を呼びながらドアをノックする音が聞こえた。ドアを開けたら知っているおじさんが部屋に入ってきた。父の大学時代からの友人で、地域の商業担当の幹部だった。父は入院中だったので、たまに父のためにアヒル肉や卵などを持ってきてくれた。
この日は、父の面会の帰り道に我が家に寄ったとのこと。いつもの笑顔で、父に会ってきたことを母に伝えてほしいと言い、明日は自分と保育院に行くから準備しておくよう念を押して帰った。
次の日の午後におじさんと保育院に行って、何人かの先生の前で歌を歌ったりして「面接」を受けた。そして、次の月曜日から保育院に行くことになった。
その保育院は商業設備事業所にあった。広い庭にはいつも木材や大きなセメント管が積んであって、自動車も何台もあった。わりと大きな権威ある事業所で、託児所と保育院が1階建物に一緒になってあった。
たまに木材を切る電動式のこぎりの嫌な音が、窓越しにも大きく聞こえて全般的にうるさい所だった。静かな場所が好きだった私はそこに行きたくなかったが、昼間に一人で家にいる私のためにおじさんが自分の地位を利用してまで周旋してくれたので、両親も承諾した。特にその保育院は、幼稚園入園前の芸術養成所として地域でも有名なところで、誰もが入れるわけではなかった。
今でも北朝鮮において音楽は、本人はもとより家門の生活と名誉に強く関係している。自分の素質とか才能とか好き嫌い以前に、少しでも生活に余裕があって地位もあれば、保育院で音楽を学ばせる。女の子の場合はより一層、音楽の道に入れようとする。いつか幸運が巡って金氏一族の目に留まれば、という願いからだ。金氏一族でなくても中央の幹部たちの目に留まるように、との望みを持っている。子どもが小さいときは家門の大人たちが、本人がそれを理解するようになると、本人も含めみんなで手段と方法を総動員する。その様子を思い出すと、今も何となく悲しくなる。
そのような野心あふれるところに、何の財力も権力もない心身ともに病弱な私が偶然に転がり込んだ。北朝鮮では珍しいおじさんの善意だったが、私にとっては迷惑な日々の始まりとなった。
(つづく)


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