米国は、北東アジアでの対共防御態勢を強化するため、韓・日国交正常化を渇望したが、李承晩政権のときは李大統領の反対で、張勉政権は政権の早期崩壊によって叶えられなかった。朴正煕軍事政権は初めからこの問題に対して積極的な姿勢だった。クーデターを謀議する段階から朴正煕は、もし米国が援助を絶てば、日本の支援を得て難局を打開する考えを持っていた。
米国が韓日国交正常化を渇望していたため、朴正煕は、米国に対してカードを一つ握るようになったのだ。朴正煕は間もなく、ベトナム派兵というもう一つのカードを握るようになる。米国が切実に望む、韓国軍のベトナム派兵と韓日国交正常化が、韓・米間の外交の主題となっていた1960年代の両国関係は安定した。韓米相互防衛条約という傘と外交的安定を基盤として、朴正煕政府は、北韓の挑発を効果的に牽制し、経済開発に専念できるようになる。
米国が朴正煕政府を圧迫するため用いた最も重要な手段は、「早く民政への移讓日程を発表せよ」というものだった。61年8月11日、ディーン・ラスク国務長官は丁一権駐米韓国大使を招致し、この問題を話し合った。
「私たちは友人の間柄だから、数日中に貴政府が決定すべき問題について、いくつか話したいと思います。去る6月、ケネディ大統領がソ連のフルシチョフ議長と会談したとき、フルシチョフはこう脅かしました。”ソ連は、世界の人民政権を支援する。共産主義がそういう国々で政権を握るのは、歴史的な必然である”
その言葉に対して、ケネディ大統領はこう反論しました。”自由選挙を通じて共産政権が成立した国はないではないか”
フルシチョフは、韓国を指しながら、現政府の軍事的な傾向のため下からの圧力や浸透に対し脆弱だと言いました。韓国は国連を構成する国々の世論に気を使わねばなりません。私は貴政府が(民政移譲への)選挙日を、63年とずっと先にするのではないかと心配します。62年の秋の国連総会の直前に選挙日を早めるのはどうでしょうか。もしそれができないなら、むしろ選挙日程を発表しない方がいいと思います。なぜなら63年に選挙するとなれば、人々が韓国政府は、選挙を恐れていると考えるからです」
このとき同席していたマッカナギ次官補が反対意見を述べた。
「韓国国民は明確な日程が発表されると期待しているのに、そうしないと非常に失望するでしょう」
ラスク長官は直ちに自分の提案を取り消した。その代わり、丁大使に「民政移譲を63年とすると発表したら、韓国人たちはどう反応するでしょうか」と尋ねた。丁一権は「私は4年間も国を離れていたため、そういう判断ができる立場でない」と言った。ラスクは重ねて「(貴政府が)選挙日程を決定する際、韓国が国際社会で直面する状況を勘案して欲しい。多くの国々が、韓国が憲政秩序へ復帰するのを期待し見守っているからだ」と述べた。
61年8月12日、朴正煕議長は「63年3月以前に憲法を改正し、5月に総選挙を実施する予定だ。憲法は大統領中心制や一院制とする」と、民政移譲のスケジュールを発表した。米国はやや不満だったが、一応、民政移譲に対する確実な約束を得たため、韓米関係は正常化された。朴正熙ケネディ首脳会談もこの頃確定する。そして朴正煕政府を見る米国の評価も改善される。(つづく)