ノースコリアンナイト~ある脱北者の物語~3 有線ラジオから流れる「革命歌劇」

日付: 2019年02月14日 00時00分

たんぽぽ


人生最初の記憶は、奇麗な青色の空だ。そのため今も空を見るのが大好きだ。
お腹がすいて目が覚めた。いつもと同じ体に力が入らない感覚を覚えながら目を開けたら、左側の窓から雲ひとつない真っ青な空が見えた。ぼろぼろになっている唇の間から自然に「奇麗ね!」という小さい声が出た。
2歳から患った肝炎ですぐ熱が出て唇に水泡ができ、唇が奇麗なときはあまりなかった。少し開けている窓から柳の木の羽付き種が入ってきて、窓の下の黄色い床が白く見えた。6月初旬にたくさん飛んでいる種で、この時期になると母の喘息がひどくなっていた。
床の一番暖かい所に横になっている私の頭の上には、壁に掛かった有線ラジオがある。そこから革命歌劇「ある自衛団員の運命」が流れていた。
革命歌劇とは、音楽と舞踊と演劇を合わせたもので、金日成が抗日運動をしている時に、地主と日帝の悪辣さを知らしめ大衆を革命化へと誘導するために作ったといわれている。
1970年代に金正日がそれを「主体革命歌劇」として発展させた。今でも「5大革命歌劇」として、偉大なる金正日様たちの賢明さと階級闘争の重要性を大衆に認識させるため、思想教育の最前線で使われている。
5大革命歌劇の中心革命歌劇は「血の海」で、その名をとった「血の海歌劇団」には、身分の低い人は絶対入れない。そのため、入団している人たちは最高に栄誉なことだと本人も周りも思っている。こんな偉大なる作品の主人公を演じる人は北朝鮮一流の芸術家として、特別な待遇を受けていた。
「帰国事業」で北朝鮮に渡ったジョ・チョンミという女性が「血の海」の主人公を演じた時、北朝鮮ではみんなが驚いた。いろいろな噂―悪い噂が広がった。
80年代中盤から北朝鮮は経済的に厳しくなって、高い配給をもらっていた「血の海歌劇団」にも運営する上で問題が生じた。歌劇団にはかなりの人数が所属しており、経済的に窮迫してきたのだ。問題を解決するために、朝総連の助けが必要となった。そのため歌が下手だったにもかかわらず、急きょジョ氏をフランスに留学させ「血の海」の主人公役に抜擢した。彼女の最初の公演で、歌と演技があまりにも下手なのには、みんなびっくりした。
朝総連が、金氏一族の独裁支配の最大の武器である「宣伝扇動」部分(現在、金正恩の妹・金与正が宣伝扇動部第1副部長)に活力を与えた一つの例である。
話を戻すと、私が4歳の時には家にテレビもないし(テレビがある家はほとんどなく、日本から来た金持ちの家と地位の高い幹部の家のみで、100世帯に1台ある程度)、電気もなく、新聞も特別な家にしか配達されなかった。ほとんどの家庭にとって、有線ラジオだけが唯一の情報源だった。情報といっても金氏一族の宣伝がメインで、ラジオから聴こえてくる歌も、小説朗読もコメディも全て金氏一族の偉大さと結びついた内容ばかりだった。天気予報があり、夜9時には韓国に関するニュースが流れたが、悪い内容ばかりだった。有線ラジオの状態を確かめに、たまに検閲が各家庭に入った。故障したりしていると問題視された。
5大革命歌劇にプラスして、各重要都市でも革命歌劇が作られた。咸鏡南道で作ったのが、日本植民地時代を背景にした「ある自衛団員の運命」だ。6個の革命歌劇は交替で繰り返し放送された。背景がすべて植民地時代、朝鮮戦争といったもので、小さい時はとても怖かった。でも「花が咲くこの春に」という歌は大好きだった。いつの間にか覚えていて、今も鮮明に覚えている。
私は体調が良くなったので、父の知人の周旋で保育院に入ることになった。北朝鮮で保育院は誰でも入れるわけではない。女性職員のために工場には保育院があるが、小さい工場は複数で協力して一つの保育院を持つようになっている。
基本は、専業主婦の子は保育院に入れないし、工場と関係がないと入れない。しかし権力があれば「力のルール」で入ることができる。
保育院に入り、これが私の大人に対する恐怖、人嫌いの始まりとなった。 (つづく)


閉じる