米国に挑んだ大統領(10)目に見えない米同盟国としてのベトナム

日付: 2019年02月06日 00時00分

李春根・国家戦略フォーラム研究院

 超大国の米ソが繰り広げた冷戦は、陣営内部には結束(intra bloc cohesion)、陣営の間では敵意(inter bloc hostility)を特徴とする戦略文化を生んだ。ともに米国陣営に属しているという理由一つのため、韓国とエチオピアが同盟国のように行動し、同じ米国側に属していないということで韓国とハンガリーが敵のように行動した。そういう形勢が冷戦時代の国際政治状況だった。
米国とソ連は、世界中の仮に重要でない地域であっても、その地域を相手が確保してはならないという強迫観念を持っていた。つまり、南韓を譲歩することは、北韓が南韓を占領することではなく、ソ連が南韓を占領するのを放置することとみなされ、南ベトナムを放置することは、北ベトナムが南ベトナムを征服するものではなく、中国やソ連が南ベトナムを切り取ることだと認識されたのだ。ベトナム戦争が激化していた60年代半ば以降、ソ連と中国の対立も顕著になった。そういう状況は米国に、ベトナムでの共産主義の蠢動は、ソ連ではなく中国の共産主義勢力が国際的に拡大する過程であるという解釈の見直しを迫った。1964年、中国が核兵器の保有に成功した後、米国の東アジア政策は、ベトナムにおける中国の拡張主義を根本的に阻止することになった。
米国がベトナムに介入した国際政治の理論的根拠は、ベトナムが共産化されるとその隣の国々も次々と共産化されるはずだという、いわゆるドミノ理論だった。そのため民主党出身の大統領であるケネディとジョンソンは、ベトナムという抜けがたい沼の中に、躊躇しながらも、足を踏み入れることになったのだ。

ベトナム戦争はアジア民族主義の発露

プロイセンの将軍クラウゼヴィッツ(Carl Von Clausewitz)は「戦争とは、当初の計画どおりに進まない」という鉄則を明文化させた有名な戦争思想家だ。戦争はそれなりのダイナミズムがある。
ベトナム戦争は結局、米軍52万人がベトナムに駐留したという、想像もできなかった状況にまで進展した。しかし米国はベトナムで迷走する中、インドネシアの政治的経験からベトナムを放棄しても大きな問題はないだろうという驚くべき事実を導き出す。
1965年10月、インドネシアでスハルトがクーデターを起こし、権力を掌握した。米国のCIAまで排除に動いた共産化するスカルノ政権を、スハルトは一挙に退け、川が血の色になったといわれるほど多くの人を粛清した。粛清されたほぼ全員が共産党員であるという事実に米国は驚いた。
米国がスハルト政権から学んだ結論は、アジアの民族主義は反共的であるという事実であり、米国がベトナムで戦っている戦争は「共産主義の外皮を被っているものの、実は、民族主義勢力である北ベトナム」との戦争であるという驚くべき現実を認識するようになった。
米国は統一されたベトナムが中国の手先ではなく、中国に立ち向かって戦う「民族主義」国家になると考えた。だとすると、米国がベトナムで「民族主義勢力」と戦争をする必要はもはやなくなる。米国は、アジア民族主義の力を逆に利用すれば、中国とソ連の共産主義拡張を阻止できるという新しい論理を見出したのだ。
米国が手を引くと決心することでベトナムは赤化されたが、赤化されたベトナムは、同じ共産主義である中国の手先、あるいは中国の勢力拡大のための橋頭堡にはならなかった。むしろ統一ベトナムは、中国軍が東南アジアへ拡張するのを阻止するくさびの役割をしているのだ。
1979年、ベトナムと中国は実際に戦争までした。ベトナムを懲らしめると、中国の先制攻撃で勃発した戦争だった。戦闘の勝利者は中国ではなくベトナムだった。
その後、1世代がすぎた現在、ベトナムは共産主義を放棄して資本主義を採用しており、米国と非常に近い国になっている。21世紀における米国の覇権への潜在的な挑戦者である中国を牽制せねばならない米国は、中国を牽制するのに決定的に有用な、目に見えない同盟国として今のベトナムを活用している。歴史は回る。2012年4月、米海軍艦隊がダナン港を訪問、米国とベトナムは大規模な軍事訓練も一緒に行う状況にまで関係が進展したのだ。


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