丁來赫(後に国防長官と国会議長を務めた)は、「軍人たちは、経済知識が足りなかったが、義務感と探究心、そして無私の愛国心をもって推し進めたため道が開かれた。特に私心なく問題に取り組んだため意外に簡単に解決策が見つかった」と言った。自由党や民主党時代の政治家たちと官僚たちは頭は良かったが党派性や縁故主義など派閥主義、つまり私欲にかられたため、国益を優先する業務推進力はひどく足りなかったという話だ。学界が、5・16軍事政権で登場した軍エリートを国家エリート、その前の指導層を伝統エリートと分類するのも、行動の基準を国益とするか、党派的利害関係とするかによる区分だ。5・16革命主体勢力の国益優先の意識は、彼らが特別な愛国心をもって生まれたというより、植民地時代に祖国のなかった悲しみを経験し、6・25戦争のとき血をもって国を護り抜いた経験から自然に生まれたものだろう。
軍人集団が主導した建国―独立―革命は、世界史の中で前例が多いが(ケマル・パシャによるトルコの革命、ナセルによるエジプト革命、米国の独立革命など)、軍人たちによる経済開発は珍しい。経済の門外漢の将校たちが、愛国心で武装し経済を学びながら、20世紀の代表的な成功事例を主導したことは研究対象となる。丁來赫長官が主導した電力3社の統合による韓電の誕生のような構造改革の事例は他にもある。
農協と農銀の統合:農協が信用業務を兼ねるべきか、それとも信用業務を分離すべきか。これは農協発足以来の論争だった。1958年、農協から農業銀行が分離された。その後、農銀は順調に発展した。ところが、農協は自己資本の不足で、ほとんどの単位組合が赤字経営あるいは開店休業状態だった。民主党時代にも統合の話が台頭した。農林部は統合を、財務部は分離を主張して、合意は不可能だった。
革命政府は、この問題を簡単にやってしまった。クーデター成功半月後の5月31日、政府は「協同組合を再編成して農村経済を向上させる」という方針を発表した。これに従って、最高会議は6月15日、農協と農銀を統合すると議決し、議長名で農林部長官に「統合処理大綱」を指示した。その内容も簡単明瞭だった。「農協と農銀の資産と負債は統合された新機構が引き継ぎ、役員および従業員は統合処理委員会の議決によって整理する」というもの。争点となる統合処理委員会の委員長には農林部長官、副委員長には財務省次官が就任し、委員は委員長と副委員長が「必要とされる者」を任命するようにした。ただ、統合期限は7月末までと明記した。
6月19日から7月1日まで8回の会議を開いた統合委員会は、新農協法案とその施行令案を作成、7月3日の最高会議に提出した。29日、全文176条と附則17条の新しい農協法案が公布され8月15日、統合された農協が発足した。
水利組合の統廃合:1軍司令部の心理戦参謀としてクーデターに加担した許順五大領は6月5日付で農林部傘下の水利組合連合会会長に任命された。水利組合とは、水が届かない水田に水を供給する事業を行う機関だった。それでコメが収穫されると、そのコメの価格から施設費の起債償還金や水税を払うようにした。革命当時、全国の組合は695だった。この組合が1400億環以上を投資したが、水がよく届く水田、つまり水利安全沓は26万3000町歩にとどまり外米の導入が続いた。
(つづく)