李春根・国家戦略フォーラム研究委員
今やわれわれの記憶から消えつつあるが、京釜高速道路こそベトナム戦争参戦の結果として認識されたものだった。1965年、韓国がベトナムに戦闘部隊を派兵した年の韓国のGNPは10億5000万ドルで、16億2000万ドルであった北韓の約60%にすぎなかった。北韓は軍事力だけでなく、経済力においても韓国より強かった。ベトナム戦争参戦期間中、韓国経済は飛躍的な発展を続け、69年にはGNPが21億ドルで、北韓の19億4000万ドルを上回った。南北分断後、初めてのことだった。ベトナムから韓国軍が最終的に撤収した73年の韓国のGNPは39億6000万ドルで、北韓の1・1倍になった。戦争中は国家の経済力は停滞するか沈むのが原則だ。しかし、韓国はベトナム戦争を経済発展の特別な機会として活用したのだ。
ベトナム戦争の戦略的意味は、米国の国際政治的な意識変化とともに変わったことをすでに指摘した。ベトナム戦争は北ベトナムの勝利で終わった。しかし、ベトナムは統一後ほぼ30年間、世界で最も貧しい国にとどまっていた。今、ベトナムは社会主義を放棄して資本主義経済体制に変身する大改革を断行している。米国軍人ではなく企業家たちが再びベトナムを訪れており、韓国企業も多く進出している。今のベトナムは回り道をして資本主義国家として生まれ変わりつつある。ベトナム戦争に参戦した国軍勇士の息子や娘たちは、現在のベトナムの首都であり、戦争のときは共産軍の総司令部要塞があったハノイで観光を楽しんでいる。韓国のベトナム派兵を輝かしい歴史という必要はない。だが、60年代に韓国が置かれていた国際政治状況と経済状況で朴正熙は苦悩に満ちた決定を下し、その決定は歴史により正しかったと評価されるはずだ。
ベトナム派兵将兵は国民の軍隊
韓国軍を傭兵と見下す者がいるが、彼らは傭兵の概念を理解していない。傭兵は金銭を稼ぐための個人集団だ。ベトナム戦争の韓国軍は国の命令に従った国民の軍隊だった。ベトナム戦争に参戦した韓国軍は、米国から韓国軍の給料よりも高い給料をもらっていた。
彼らは血の対価として得た給料を故郷に送金し、大韓民国政府はベトナム戦争参戦を契機に有利な立場で米国と経済的交渉ができた。有利な条件で借款を受け、好条件で事業の受注ができた。韓国がベトナムから得た経済的利益は、68年末までに3億8000万ドルだったが、これは当時の海外からの総収入の16%に相当する額だった。
63年には1億ドルにも満たなかった外貨準備高は、65年に2億3800万ドルとなり、68年10月には3億8600万ドルに増えた。ベトナムに軍隊を派兵した代価として米国からもらった軍事費は、米上院調査委員会によると、65年から70年の間に9億2700万ドルに達した。これは当時の韓国の経済規模から見て莫大な資金だった。韓国の65年度のGNPが10億5000万ドルだった事実を想起してみればわかるだろう。
朴正熙のベトナム戦争参戦決定は、朴正熙の2大国家戦略、つまり国家安保の確保と経済発展の推進という目標を達成するための最も近い道だった。特に韓国に対する防衛負担を軽減しようとする米国から、継続的に安保介入の約束を得るための策でもあった。オーストラリア国立大の金ヒョンア教授は「朴正熙の洞察力と緻密な協商のおかげで、米国の軍事的・経済的援助が削減されることを延期させただけでなく、米国を韓国軍の近代化作業に取り組ませることができた」とベトナム戦争の経済効果を論じている。ベトナム戦争に参戦して金を稼いだのは、参戦勇士たちではなく、彼らの祖国、大韓民国だった。
米国のベトナム参戦論理
ベトナム戦争は冷戦という構造の中で理解せねばならない。第2次大戦後、世界は米ソという二つの強大国によって両分された。ほとんどの国々は、米国の陣営かソ連の陣営に属した。
米ソの両方が比較的神経や関心を払わなかった地域は、米国とソ連のどちらの陣営でもないという意味で非同盟を標榜。彼らは第三世界国家と呼ばれた。第三世界の国々が非同盟を標榜した理由は、独立と中立の追求という理由だけでなく、米ソの両方からの関心と利益を得るという目的もあったと捉えるのが自然だ。
(つづく)