【新連載】ノースコリアンナイト~ある脱北者の物語~1 北送事業で北に渡った人の生活伝える

「帰国事業」60周年を迎えて
日付: 2019年01月17日 00時00分

たんぽぽ

1970年 北朝鮮で誕生
75年 幼稚園(2年間)
77年 小学校(4年間)
81年 中学・高校(6年間)
87年 大学4年半と3大革命  小組2年半
94年 電気機器工場で設計士
95年 児童学生図書館で司書
96年 結婚
2007年 北朝鮮を脱出
08年より日本在住

 私は、17年11月から音信不通になっている北朝鮮に住む兄弟からの手紙を待ち続けている。兄弟とは手紙でしかやり取りができないのだ。その手紙でさえ、北朝鮮政府の厳しい検閲を受けた後に送られるもので、本当に伝えたい内容はほとんど書かれていない。それでも待っているのは、兄弟がまだ生きていることを確認したいからだ。
生存確認の手紙が届かない。毎朝仕事に出かける前に郵便受けを覗き、届いていないと涙が自然とあふれてくる。帰宅してまだ届いていないと分かると、一瞬にして全身の力が抜けてしまう。夜には北朝鮮にいる兄弟のことでよからぬ想像をしてしまい、寝られなくなる。特に兄弟の誕生日には「生きているかしら」「誕生日なのに、何かちゃんとしたものを食べているかしら」と思いを巡らし、口に何も入らなくなってしまう。一緒に働いている外国人が祖国にいる家族と電話をする姿を見ると、いつの間にか涙で頬が濡れている。日本に来た時には、北朝鮮を離れてこんなに辛いことがあるとは思ってもいなかった。
兄弟の生の声を聞くことは難しいとしても、せめて手紙でもとこんなに切なく待っている。私からの便りが兄弟に届いているのかどうか、知るすべもない。
こんなに私を苦しめている北朝鮮だが、今から60年前の日本では「北朝鮮こそ地上の楽園」と宣伝しお祭り騒ぎをしていた。そして日本人を含め9万3340人の在日韓国人を、24年の間に北朝鮮に送り込んだのだ。彼らの約95%は韓国が故郷だった。
北朝鮮に渡った在日韓国人とその家族は彼の地でどんな生活をしていたのか。そのほんの一部を「帰国事業」60周年を迎えた今、私は自伝を通じて語ろうと思う。
日本に来て「翼をください」という歌に出会った。
「今 私の願いごとが かなうならば 翼がほしい この背中に 鳥のように 白い翼 つけてください この大空に翼を広げ 飛んで行きたいよ」(作詞=山上路夫)
毎日空を見上げては、太陽や雲、月や星に問いかけている。「私の兄弟は生きていますか」と。
統一日報が60周年を迎える記念すべき年に、連載が開始できることに感謝を申し上げる。この自伝を書くにあたって、物語の中に出てくる人物や場所などは、北朝鮮政府が個人を特定できることから生じる弊害を避けるために仮名を使うことにする。いつか、早い時期に、真のノンフィクションに書き直せることを祈りながら今回はご理解をお願い申し上げる。
「たんぽぽ」をペンネームとした理由は二つある。一つは自伝の中から出てきたイメージ、もう一つはたんぽぽの種のように私を含む脱北者の話が世界中に広がってほしいとの願いからだ。いまこの瞬間にも、苦しみの中、無惨に死んでいく人たちがいる。北朝鮮の民主化が実現し、そこに暮らす人々に自由が与えられることを願ってやまない。
これまでの歴史を振り返っても、日本は北朝鮮との関連が深いといえる。拉致という罪深い犯罪を犯しても、それが罪だとさえ思わない非人間的なところから、一刻も早く拉致被害者たちを救い出さなければならないからだ。そのためには日本中の人々が団結して、世界の人々と協力していく必要がある。
その第一歩として北朝鮮の実情を知るという意味から、私の話が少しでも役に立つことがあれば幸いである。


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