米国に挑んだ大統領(7)当初、ベトナムへの派兵は医務・建設部隊

日付: 2018年12月12日 00時00分

国家戦略フォーラム研究員 李春根

 ケネディ政権は1963年夏、韓国政府にベトナムへ医療支援団を派遣してほしいと公式に要請し、ジョンソン政権は64年5月、韓国を含む友邦25カ国にベトナム戦争への支援を要請する書簡を送った。
朴正熙は、すでに心中でベトナム派兵を決意した状況ではあったが、米国の要請を受けて韓国政府が迅速に派兵を決定したわけではない。将軍だった蔡明新は、むしろ朴正熙がベトナム戦争派兵を強力な口調で反対したと証言する。朴正熙がベトナム派兵を最終的に決めるまでの数日間、陸英修夫人が1日に何度もタバコの吸殻で一杯の灰皿を替えねばならなかったという逸話は、ベトナム戦争参戦決定過程における朴正熙の苦悩を物語る。年中蒸し暑く、毒蛇が這い回り、敵がどこにいるかわからない戦場で、韓国の若者が血を流さなければならないということから、どの大統領でも悩まず決定できる状況ではなかったはずだ。
それでも派兵を決定した朴正熙の頭には二つの戦略目標があった。まずは、派兵を通じて国家安保を確実にすること。2番目は経済発展の礎を築くということだった。米国の要請に応じることで、韓国は6・25戦争のとき米国の参戦に対する恩返しをすると同時に、韓米同盟をより緊密な関係に格上げし、駐韓米軍のベトナム転置を防止するための現実的な代案であると考えられた。
韓国がベトナム戦争に米国に次ぐ約5万人の兵力を派遣した期間、韓米関係は韓米同盟史上、最高の蜜月時代だった。ベトナム戦争を最も包括的に研究した学者の一人である国防軍事研究所の崔ヨンホ博士は、「結果的に、韓国軍のベトナム派兵は米国の積極的な支援によって国の安保と経済問題を解決せねばならない朴正熙政権が、米国の支援を引き出すための反対給付として活用した国家戦略だった」と評価している。6・25戦争のときに助けてくれた自由友邦の支援に報いる、東南アジアでの共産主義の膨張阻止に参加して世界平和と安保に貢献するなど、さまざまな理由が提示されたが、韓国がベトナムに軍隊を派遣した最も重要な動機は、国家利益を最大化することだった。国家利益の中で最優先の利益である「国家安保」のための決定で、その後に重要な「経済発展」を図る決定だった。

ベトナム戦争派兵決定および韓国軍の役割

ベトナム戦争に最初に派遣された韓国軍は戦闘部隊でなく医務部隊で、1964年7月15日に創設された第1移動外科病院だった。先発隊が同年7月18日ベトナムに派遣され、本隊は9月11日に釜山を出発して10日間の航海の後、9月22日に当時の南ベトナムの首都サイゴン(現・ホーチミン)に到着した。歓迎式(9月23日)の後、ブンタウに移動した医務部隊は9月28日、ブンタウにあるベトナム軍の陸軍療養病院で任務を始めた。
2番手としてベトナムに派遣された韓国軍部隊も、戦闘部隊ではなく建設支援団だった。米国政府は64年1218日、ブラウン駐韓米国大使が朴正熙に直接伝えたジョンソンの親書を通じて、非戦闘部隊の追加派兵を正式に要請した。親書の内容は「ベトナム戦争は自由陣営に不利に展開されているが、米国は積極的に介入して共産主義の侵略を阻止する。韓国政府にも米国の意志を理解してもらい、韓国軍工兵1個大隊と医務支援団(野戦病院)の派兵を要請する」というものだった。ジョンソンの親書を受け取った朴正熙は、すでに予想していたことであるため迅速な対応を指示し、国会の同意を要請する準備も整えさせた。
65年1月、平和を象徴する意味で「鳩部隊」と命名された、ベトナム派兵建設部隊が創設された。約2000人の兵力で構成された部隊は3月10日、仁川港を出発して米第7艦隊の艦載機の護衛の下、3月16日にサイゴン港に入港した。建設部隊ではあったが、自らの防衛能力も必要だった鳩部隊は、駐留地域を陣地化し、防御陣地も構築した。
ベトナムの戦局が悪化している状況で、米国は65年3月8日、ダナンに最初の米地上軍戦闘部隊を上陸させた。米国は地上軍戦闘部隊を本格的に派兵した直後、韓国に対しても戦闘部隊の派兵を要請した。65年5月の韓米首脳会談でジョンソンは、韓国軍戦闘部隊のベトナム派兵を公式要請し、韓国側はそれに肯定的に反応した。派兵は避けられなかったし、派兵を決心していた朴正熙は、急いでいるジョンソンから派兵にともなういくつかの反対給付を引き出すことに成功した。同盟を相互依存関係へと格上げさせるきっかけを作った。         (つづく)


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