米国に挑んだ大統領(4)朴正煕は「国家安全」と「経済発展」を国民に提供した

日付: 2018年11月14日 13時08分

国家戦略フォーラム研究員 李春根


米国の関心

朴正熙の左翼前歴を憂慮した米国は、朴正熙の真面目を把握した後、彼を積極支持し始めた。ところが、米国が朴正熙を支持するようなったもっと重要な理由は、韓国の安全保障という切実な問題のためだった。当時、北韓は韓国より経済力と軍事力でかなり進んでいた。米国はこの頃、すぐ目の前に出現した共産政権であるキューバのため非常に頭が痛い状況だった。大統領に就任してわずか2カ月後の1961年4月、ケネディはキューバ難民で構成された侵攻軍をピグ湾(キューバ)に浸攻させたが、全員逮捕される深刻な外交政策の失敗を経験する。米国最高の秀才たちで構成されたケネディ政権が犯したこの外交的大失敗は、外交政策を研究する学者たちが、後々研究する主題になった。米国歴史上、失敗した政策決定の代表事例である米国のピグ湾侵攻事件は、ケネディに他の余裕を許さない、彼を圧迫するものだった。
このように米国がうろたえているとき、共産主義者たちは第三世界の至る所で米国に立ち向かって挑発を敢行しかねず、特に韓半島での戦争再発は米国が最も気にする問題の一つだった。しかし、キューバ問題で精一杯の状況で、韓国の安全問題に米国が直接取組むのも難しい時だった。まさにこのとき、クーデターを起こした朴正熙将軍の韓国軍部は、米国が見るには韓半島の安全のため非常に望ましい勢力と判断された。
このように米国は、朴正熙軍事政府の政策を細密に観察した後、積極支持することを決めた。朴正熙のクーデターを、韓半島の戦争危機を安定的に管理できる勢力の登場として判断したのだ。そして朴正熙政府は、米国の期待を裏切らなかった。朴正熙は執権期間中、大韓民国の国力が北韓の国力を追い抜くようにし、北韓の深刻な挑発から大韓民国を護り、ベトナム戦争で泥沼に陥りつつあった米国を「軍事的に支援」したりもしたのだ。

民主主義は経済発展の産物

朴正熙は、ケネディ政権が期待した第三世界の新しい若い力であったことを、その業績で証明してみせた。もちろん朴正熙の過ちは少なくない。軍事クーデターで民主主義政府の機能を停止させ、18年間統治しながら暴悪な独裁と呼ばれるようなことも行った。しかし、過ちは功績と一緒に評価すべきだ。朴正熙は、人口を除けばあらゆる面で脆弱だった大韓民国を、北韓よりはるかに強い国に変え、5000年の貧困から脱出させた。人間や国家において最も重要なのは「安全」と「繁栄」だ。経済発展と国家安保こそがほかの何よりも重要な価値だ。朴正熙は60年代初頭という特定の状況で、大韓民国に最も欠けていた国家安保と経済発展という二つの価値を国民に提供することに成功した。そして朴正熙が成し遂げた国家安保の確保と経済発展は、80年代の半ば以降、大韓民国が民主化する土台になった。米国政治学会会長などを務めた故・セイモア・マーティン・リプセット教授が言った「民主化は経済発展の産物」という公式が、朴正熙の大韓民国で現実として立証されたのだ。

韓国科学技術院

ソウル市の東北に位置する洪陵には、韓国の科学技術の揺りかごと呼ばれる韓国科学技術研究院(KIST)がある。韓国原子力研究所が1950年代後半から60年代前半まで韓国の科学技術を代表する研究機関だったとすれば、その後に韓国の科学技術を代表した総合科学技術研究機関は、1966年に設立された韓国科学技術研究所(現・韓国科学技術研究院)だった。KISTが設立される前の1962年にすでに文教部は韓国科学技術院の設置案を作った。国立工業研究所を財団法人に改編して総合科学技術研究所に育成しようとした経済企画院の計画(63年)もあったが、当時の国家財政から実現しなかった。
まともな研究所を作る能力もなかったのが1960年代の韓国だった。韓国の経済発展がベトナム派兵で得た外貨を元手に出発したように、韓国科学技術研究所も韓国軍のベトナム派兵の対価として設立された。今日、大徳研究団地をはじめ、10以上の政府出資の研究機関が設立されているが、韓国科学技術研究所がその先駆けといえる。韓国の科学技術の発展は、経済発展の目に見えない基礎になった。科学技術に支えられてこそ経済発展が可能なのだ。産業革命は科学技術の発展を土台にしてなされたものだ。  (つづく)


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