最高会議の朴正煕副議長が革命後直面した難題の中には人事も重要な課題だった。革命に直接参加しなかった人々を包容する課題があった。革命は、成功するまでは指導者を頂点に水平的な同志関係を形成するが、革命が成功した後は、核心同志たちの関係も必然的に垂直的な権力秩序が再編されるしかない。
ところが、革命に参加した勢力は、以前の位階秩序を尊重しなかった。韓国社会はすでに、1年前の4・19の時から、下からの決起による権力の再編を自然と思う雰囲気ができていた。さて、権力秩序の再編は、些細な摩擦や誤解からくる場合も多い。歴史上の大事件も深く観察すれば、人間関係や感情問題から始まることが多いのだ。
7月初めに起きた、革命主体内の粛清事件もそれが理由だった。発端は革命の当日、第6軍団砲兵団兵力1500人を率いて最初にソウルに入り、陸軍本部を占領した文在駿大領だった。文大領は激情で率直な人だった。
文在駿は5月21日、陸軍憲兵監に任命されると、不正が多かった将校45人を予備役へ編入させた。数日後、その中の一人が将校に復帰して、情報要員として活動していることが分かった。不審に思って調べてみると、金鍾泌中央情報部長が影響力を行使したという話が聞こえてきた。文在駿は「これは私に対する侮辱だ」と思った。文在駿の二番目の不満は、金鐘五新任陸軍参謀総長との間で起こった。文在駿が決裁を受けるため訪ねると、金鐘五はこう言ったという。
「第3CID(犯罪捜査隊)隊長の金・ヨンウ中領と第15CID隊長の方滋明中領は、あまりにも軽率で政治的に振る舞う人物だから更迭しなさい」
文在駿は「私は憲兵の仕事が初めてで、まだ実情を把握してないため、少し時間をください」と言い、直ちに人事参謀部長を訪ねて頼んだ。「今、CID隊長たちが全国の密輸事犯の捜査を指揮しているから、それが終わるまで待ってください」
文在駿はその後、金鐘五総長がこの問題を取り上げないのを見て、参謀総長が納得したものと考えた。6月22日ごろ、金鐘五総長が文在駿をまた呼んで、「人事参謀部長に会えば分かる」とだけ告げた。人事参謀は文憲兵監に「参謀総長の指示により、憲兵次監の金詩珍大領、金・ヨンウと方滋明中領、そして黄某中領を除隊させろ」と言った。文在駿は強く反発した。「憲兵の人事は憲兵監に任せねばなりません。しかも、金詩珍大領は、朴正煕議長が直接頼んだ人なのに、こんなことをしていいですか」
人事参謀は、「私が参謀総長にもう一度申し上げるから興奮するな」と言った。数日後、朴正煕は文在駿を呼んで「総長をよく補佐しなさい」と宥めた。文在駿はそれでも腹の虫が納まらなかった。 陸士5期同期生の空輸団長朴致玉、最高会議秘書室長の安用鶴、内閣首班秘書室長の李晦榮大領が自分の事務室に来たとき、こう言っている。
「金鐘五総長が私を信じておらず私の腹心たちを除去しようとするから、私も手を回さねばならない。金鐘五将軍はそもそも予備役編入対象者なのに、復活したではないか。私は予備役編入審査員だから、将軍審査があるとき彼を予編対象者にするつもりだ」
文在駿は、憲兵監に赴任して将軍たちの不正を調査したことがある。第3CID隊長の金・ヨンウ中領が、自由党や民主党時代の調査資料を根拠に報告書を作った。そのリストには金鐘五総長も含まれていた。(つづく)