朴正熙側は米国のこのような欠礼に怒ったが、米国にはそれなりの理由があった。韓国の民選大統領がいるのに、朴正熙議長を国家元首として遇するわけにはいかず、かといって首相級の待遇もできないため、前任の駐韓米国大使を出迎えに行かせたという説明だった。国家再建最高会議の若い将校らは、米国側に気概を見せねばならないと考え、侮辱を受けるのなら訪米自体を保留すべきだと主張した。
米国は韓国側の怒りを尊重して丁一権を呼び、儀典手続きを大幅に格上げしたことを伝えた。
「ジョンソン副大統領とラスク国務長官が空港で出迎え、儀仗隊の査閲をして、朴正熙議長がホワイトハウスに到着するときはケネディ大統領が玄関でお迎えする」ということになった。
朴正熙はケネディの前で堂々と振る舞った。ワシントン空港に到着したとき、長身のジョンソンがまず近づいてきて握手を求めた。ラスクは夫人まで同伴して空港で待ち、朴正熙が師団長在任時に国連軍司令官だったリーアン・ラムニッチ大将(当時の米合同参謀本部議長)も出迎えた。格調のある歓迎だった。
韓国のクーデター勢力を友好的に 迎えた米国
朴正熙の米国訪問後、駐韓米国大使のバーガーは、クーデターを主導した勢力を「真の改革を推進し、正直でかつ効率的な政府を作ることを心に決めた、有能で情熱的で献身的な人々である」と電信で絶賛した。バーガーは、革命政府が推進しようとすることを把握した後、「韓国に対する米国の支援は、まったく損をしないと強調してもいい」と主張した。朴正熙が米国を訪問した際、リンドン・ジョンソン(Lyndon B.Johnson)副大統領は、朴正熙が「能力と情熱、献身を見せてくれた」と称えた。ジョンソンは1963年11月のケネディ暗殺直後、米国の大統領になり、ジョンソンが絶賛していた朴正熙は63年12月の大統領選挙で尹潽善候補に辛うじて勝利。63年12月17日、大韓民国の大統領に就任し、第3共和国をスタートさせた。朴正熙とジョンソンは1960年代初め、韓米関係史上、最も友好的で緊密な同盟関係を維持した。
多くの韓国人がケネディと朴正熙の会談に対して、ケネディがまるでアフリカの第三世界の国から来た民主主義の破壊者に対するように冷遇したと認識している。事実、当時の大韓民国の経済力はアフリカのガーナと同水準だった。だが、朴正熙が率いた大韓民国は、米国にとってアフリカ水準の国ではなかった。冷戦の最前線に立って米国の世界戦略に直接参加する同盟国だった。特に米国が介入しはじめていたベトナム戦争で、米国を直接支援できる国が大韓民国だった。
1961年11月13日から17日まで、米国を非公式訪問した朴正熙(当時は国家再建最高会議議長)は、ホワイトハウスでケネディと歓談した。このとき米国は韓国に対する追加経済援助を約束し、朴正熙はベトナム派兵に対して肯定的に支援の意思を示した。朴正熙はこの訪問を通じて米国から政治的信頼を得ることに成功した。
ところが米国は、朴正熙のクーデターそのものを支援したわけではなかった。朴正熙を憎む韓国人は、米国が「走狗」である朴正熙を前面に出して張勉の民主政権を倒すよう促したと言っているが、これはまったく違う。朴正熙のクーデターが勃発したとき、米国は慌てて朴正熙がどういう人物かを調査するため躍起になり、特に朴正熙の左翼活動経歴が明らかになると、どうすべきか悩んだ。
見当違いだった北韓の反応
米国が朴正熙のクーデターで当惑していたそのとき、北韓側は驚くことに朴正熙のクーデターを支持し、米国が韓国の政治状況に干渉してはならないと逆に声を振り立てた。北韓は「5・16」が勃発するやすぐ歓迎の放送をしたほどだ。北韓はその後、朴正熙国家再建最高会議議長と接触するため、朴正熙の実兄の朴相熙と親友だったが大邱暴動の後、北韓へ逃避した黄泰成を密使として南韓に送った。金日成は、黄泰成を通じて朴正熙と友好的な接触ができると期待したのだ。だが、朴正熙の革命軍は黄泰成を逮捕し、裁判で死刑を言い渡し、朴正熙が1963年11月大統領に就任する3日前に死刑を執行した。 (つづく)