大韓民国の建国史(130)革命後、権力再編の過程で避けられぬ葛藤

日付: 2018年11月07日 08時17分

洪熒・本紙論説主幹


国務省の情報責任者ヒルズマンは数日前、USIB(NSCの情報連絡委員会)の人々と話し合ったが、韓国のクーデター勢力は共産主義者でないと結論を下したと言った。ナセル式の方法、つまり米国に頼らず独自路線を追求する方式を考える将校たちがいるかも知れないが、その方向へ進むようではないとヒルズマンは言った。
もちろん、北側が主体勢力の中のスパイを送り込む可能性はある。ハインツ海軍提督は、金鍾泌中領の権力があまりにも大きくなりつつあるのを憂慮した。彼は金鍾泌中領が1人独裁体制を築く可能性があり、そうなれば共産主義者たちが容易に権力を掌握できるという見解を披瀝した。マッカナギは崔慶綠将軍がそう考えたのは、軍事政権がとった措置、例えば暴力団を逮捕して引き回したような行動を見てからのようだと言った。国際協力処(ICA)のシェパトは「私たちが持っている情報では、軍事政権の経済官僚と会議したら、社会主義的経済観を見せたという程度だ」とした。この緊急会議は「朴正煕のクーデターが狡賢い共産党クーデターではない」という結論を下した。
2軍司令官だった崔慶緑将軍は副司令官だった朴正煕から冷たく遇された。朴正煕は崔慶緑将軍が陸軍参謀総長のとき、その下の作戦参謀部長だった。米国が朴正熙を除隊させろと圧力を加えたとき、崔慶緑は苦しい立場だった。この時、2軍司令官の張都暎が朴正煕を2軍副司令官として受け入れた。張都暎がその後、陸軍参謀総長として抜擢され、崔慶緑は2軍司令官となり、大邱でまた朴正煕と会った。5・16の当日、崔慶緑は米軍を支持、革命に反対した。このような曲折を経て、朴正煕は崔将軍が好きではなかった。
クーデターの数日後、朴正煕は崔慶緑を最高会議の副議長室へ呼び、軍を去るよう勧めた。このように軍を離れた崔慶緑がグリーン大使代理に共産党関連の話をしたようだ。当時、6万兵力を駐留させていた米国としては朴正煕の思想問題は深刻な事案だった。
後日、公開された秘密資料を見ると、米国政府はそういう諜報を非常に合理的に扱ったことが分かる。「朴正煕は一時期共産主義だったが確実に転向した」という初期の判断を維持したが、情報収集は旺盛に続けた。
李錫済の証言によると、米情報機関は、革命主体の領官将校たちに関する個人情報がほとんどなかったという。米CIAは平素から緊密だった英国諜報機関に頼んだ。英国諜報機関は、中共の情報機関に頼み、中共は平壌の情報網を動員して北側が持っている韓国将校たちに対する情報を集めてくれたという。革命政府の法律制定作業に関与していた李錫済は、自分につきまとうCIA要員から監視される気分だったという。
6月の初め、米カリフォルニア大学バークレー校のスカラーピノ教授が訪韓して李錫済に会った。スカラーピノ教授はその1年前、コロン協会で発表した「コロン報告書」を通じて「韓国にはクーデターを起こすほどの勢力がない」と予測して多くの青年将校たちを興奮させた。スカラーピノ教授は、李錫済に会った5時間、尋問するように革命政府の政策と理念について詳細に質問した。
李錫済は、米国側が革命政府の思想問題について深い疑惑を捨てられず、学者まで動員して確認に出たものと理解した。スカラーピノは面談を終え、「指導層の団結と清廉さ、そして国の近代化のための画期的プログラムが、成功の条件だ」と忠告した。 (つづく)


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