四天王寺ワッソ【第9回】「自分たちの手でレガシー守りたい」

NPO時代の幕開けと「支援の会」結成
日付: 2018年10月31日 00時00分

 四天王寺ワッソは2000年度末、メインスポンサーである関西興銀(旧大阪興銀)の破綻で存続の危機に見舞われたが、井植敏・元三洋電機会長の支援によって再び開催への道が開けた。しかし、ワッソの組織体制を形にするまでには一定の時間を要した。01~02年は祭りで使用された衣装や小物の展示会、セミナーなどの略式イベントで代替し、03年にようやく復活を遂げた。
(李民晧ワッソ取材チーム長)

第1期ワッソの支柱的役割を担った興銀(旧大阪興銀本店)
 2003年8月1日、大阪市内の某ホテル。崔忠垣(株)イーストンアーミー会長(当時63歳)の呼びかけで在日同胞42人が集まった。この日、同胞たちが集まった目的は「四天王寺ワッソ支援の会」を結成することだった。ワッソ祭りの復活と支援を、同胞たちが自ら希望したのだ。ワッソの生みの親であり、実行委員長を務めてきた李熙健・前関西興銀会長も急きょ会場に駆け付けた。
同胞たちは、ワッソの永続的な開催と、そのサポートを目的とするNPO法人「大阪ワッソ文化交流協会」の設立計画を立ち上げようとしていた。協会の役員陣営には、在日同胞と日本の政官 財界の重鎮たちを均等に連ねるという原則も確認した。
また、従来のようなマンモス級のイベント開催は物理的に実現が難しいとの判断により、費用と人員を既存の3分の1程度に縮小することを決めた。開催日は従来通り11月3日(文化の日)にするとの方針も固めた。この年に設定したワッソの予算は1億2000万円だった。在日同胞たちはワッソの中断以降も、傍観していたわけではなかった。表立った活動こそなかったが、大阪行政当局や財界などを訪ねまわり、支援に対する事前交渉を継続していた。崔忠垣会長は当時、本紙とのインタビュー(03年8月15日付)で、ワッソ復活に力添えした動機について、次のように所感を述べている。
「私を含め、ワッソに関わってきた同胞たちは『在日同胞としてこれだけは残したい』という強い気持ちがありました。約2年間にわたり、水面下で様々な交渉を行ってきました。そして、ついに復活の目途が立ち始めました。本当に感無量です。今、何より必要なものは、ワッソ経験者たちによる支援です。かつてワッソで華やかな踊りを披露してくれた若者たちが再びワッソに戻り、祭りに華を添えてくれることを願います」
存続の危機から一転、井植敏・元三洋電機会長がリードし、その後、興銀OBを中心とした在日同胞有志、そして日本の政官財界が共に力を合わせ、ワッソ祭りはついに再開されることになった。
しかし、残念ながら従来のメイン会場だった四天王寺での開催は引き続きの利用が不可能となってしまった。やむを得ず、現在のステージ、古代日本の行政府が置かれた難波宮跡へと移すことになった。ここは645年、日本で初めての政治思想改革である「大化の改新」(乙巳の変)が宣言された由緒ある史跡だ。難波宮の大極殿は平安時代の正殿であり、日本に渡ってきた外国使節を迎える施設だった。三国統一の主役であり、当代の外交家である武烈王・金春秋も訪れた、韓半島とは深い縁のある場所でもある。
もう一つ残念な点もあった。韓半島の使節らが谷町通りを行進する巡行が不可能となったのだ。仕方なく、巡行は小さい広場に集まって行うことになった。
03年、ワッソ実行メンバーの興銀行員たちは多忙を極めた。大阪市内の高校、大学を訪問し、ワッソへの参加を依頼。参加者が決定すると、行員たちが率先して日本の生徒や学生たちに音楽や舞踊、楽器演奏を教えた。興銀を離れても、ワッソだけは守りたいという同胞たちの願いが一つに結集したのだ。ワッソのボランティアとなり、日本の学生たちへの指導に乗り出した興銀OBたちは50人を超えていた。
(つづく)


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