四天王寺ワッソ<第8回>

存続の危機に現れた救世主
日付: 2018年10月24日 10時35分

 2000年12月、興銀の破綻はまさに青天の霹靂だった。破綻の余波は、ワッソ祭りにもダイレクトに影響を及ぼした。日本当局からは、費用がかさむ諸般の事業を清算するよう求められた。興銀職員たちは、長い年月をかけ心血を注いだ祭り・ワッソを「放棄」する事態を覚悟していた。まさにその瞬間、状況は一転した。それは井植敏・三洋電機会長室からの1本の電話から始まった。(李民晧ワッソ取材チーム長)

 興銀の行員たちは、一昼夜にして失業者へと転落し、路頭に迷う羽目になった。日本の大手地方銀行を超える規模の在日信用組合の破綻で、大阪を中心とする近畿地方一帯に暗雲が立ち込めた。それはまさに、金融機関を超えて支柱的な役割を担ってきた在日同胞組織の崩壊を意味した。当時の状況の緊迫さは、関係者たちの証言からも十分に知ることができる。
「悲しかったですね。多額の費用と労力をかけて作り上げたワッソの衣装と道具を廃棄する日が近づいていました。借りていた倉庫に置かれた道具たちが悲しそうに見えました」(猪熊兼勝・大阪ワッソ文化交流協会理事長)。
「当局は、ワッソで使用する道具の価値を『ゼロ』と評価しました。営業にプラスになるものではないとの理由から、全て廃棄処分するよう指示がありました。『結局捨てるしかないのか』という諦めの気持ちから、物品倉庫前では同僚数人で惜別の祭祀まで執り行いました」(李秀明SBJ銀行調査役)。
李調査役は「冷たい現実に涙が出た。物品廃棄の見積書を手渡され、現場に向かったその日をありありと思い出す」と振り返った。しかしこの時、奇跡のようなことが起きた。三洋電機の井植敏会長室から、1本の電話がかかってきたのだ。ワッソの物品を保管する場所を無償で提供したいという申し出だった。
これに関し井植元会長は最近、インタビューで「(ワッソの)衣装と道具の数々は守っていくべき貴重な文化財であると感じたから」と語った。
三洋電機は当時、白もの家電の生産工場をタイに移転したことで大阪の物品倉庫に空きが生じ、ワッソのために無償で提供しようとした。有償で貸し出すこともできる場所を、ワッソに譲ったのだ。こうして、消滅の危機に直面していた韓半島の歴史を再現する品々は救われることになった。
1990年から2000年まで11回、興銀と在日韓国人主導のもと開催されてきたワッソ祭りは、いつの間にか天神祭り、御堂筋パレードと並ぶ大阪の3大祭りへと成長していった。毎年ワッソに参加し、観覧してきた韓日の市民たちは、ワッソのアイテム一つひとつ、踊りと音楽の一つひとつが「文化財」のごとく貴重であるという認識で一致していた。
ワッソの発案者である李煕健、李勝載両氏も、どうしてもワッソだけは残しておきたいと願っていた。銀行は破綻しても、ワッソだけは守りたいという思いが強かったという。猪熊理事長は「李煕健氏を訪ねると、普段通り温和な表情だった。その時の彼の心中は計り知れない」と証言した。
このように、ワッソを残していきたいという切実な思いは、在日同胞だけではなかった。たとえ興銀の時代は幕を閉じても、ワッソを続けていきたいという彼らの願いは集結し始めた。
そして、ワッソは2003年、短い休止期間を経てついに”復活”の翼を広げて、ついに新たな姿で生まれ変わった。
(つづく)
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 興銀破綻時に、祭りの物品を保管する倉庫を無償で提供し、ワッソ復活のキーマンの役割を務めた井植敏・元三洋電機会長にインタビューした。ワッソ事務局を経由して行ったインタビューで、井植元会長は「ワッソ」のほか、「サムスン」との提携など韓日交流史についても語った。

――「ワッソ」の復活に力添えした契機は何でしょうか。
1990年(花の万国博覧会開催時期)当時、関西の財界でワッソなどの日韓友好活動を応援しようという動きがありました。
祭りの備品を保管できるよう、三洋電機が無償で倉庫を貸与したと聞いています。
保管先がなくなり放置されることになれば、二度と再生することができません。ワッソの衣装や道具の数々は、守っていくべき貴重な文化財だと感じたからです。

――興銀の理事長だった李熙健氏が「助け」を求めたとの説もあります。
助けを求められたことはなく、ただ応援を申し出ました。

――復活させる際に、最も重点を置いた点は何でしょうか。
大阪の企業の多くが積極的に支援してくれるかどうかという点です。

――李熙健氏との付き合いについて教えてください。
李照健氏の長男の李勝載社長と仕事の関係でお付き合いがありました。李熙健氏とは四天王寺ワッソを通してのかかわりでした。李熙健氏はおおらかで懐の深いリーダーだと認識しています。

――2010年に韓国政府から「大韓民国修交勲章崇禮章」を授章されました。これについての思いを聞かせてください。
(韓国との縁は)1963年当時、親善試合の団長として参加したバレーボールのスポーツ交流から始まりました。69年のサムスンとの合弁会社設立、韓国保税地区(亀尾、馬山)への投資など、三洋電機を通して実施してきたこと、そして四天王寺ワッソの活動について認めて頂けたのだと思います。両国の友好関係に努める多くの皆さんと共に頂いたものと思っています。

――「ワッソ」はどのような祭りになるべきだとお考えでしょうか。
時代の変化に応じたものにしていくこと。そのためには、次世代にどのように引き継いでいくかを視野に入れることが重要です。そして、両国以外の外国人にも参加してもらい、北東アジアの文化をよりグローバルに発信する祭りになっていくべきだと思います。

――韓国のサムスン電子や創業者一家と特別な縁があると承知しています。1969年にサムスン電子と合弁で「サムスン三洋電機」を設立し、韓国テレビ製造事業に大きく寄与したと伺いました。サムスンと関わりを持ったきっかけは何でしょうか。
アジアの経済発展を望むという双方の創業者の考えが一致し、一緒に事業を興すことになりました。(日韓を往来しながら、感じたことは)経済発展のスピードに驚いています。

――サムスンとは共同で、燃料電池事業や次世代技術開発などを推進しました。韓国企業の成長の源は何だったとお考えでしょうか。
人材育成への投資です。人の価値を大切にする企業が認められることは、世界共通です。サムスンと三洋電機は、より良いモノ作りに向けて、互いに良い刺激を受けながら切磋琢磨し、成長していきました。

 


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