洪熒・本紙論説主幹
電力の生産と供給を担当した電力会社は、朝鮮電気、京城電気、南鮮電気に分離されていたため、人材と施設の重複と浪費的運営が深刻だった。
政府もこの弊害を早くから認識し、1951年5月23日の閣議で3社の統合を議決したが、民間株主と労組の反対で10年経っても実現しなかった。
発電設備容量に対する発電率は解放前は55%以上だったが、解放後は一時11・7%まで落ちた。送配電の段階で発生する電力損失率は41・7%もあり、先進国の3倍だった。1959年末現在、電力3社の累積赤字は49億ウォンだった。民主党政権は、非能率の化身のようになった電気3社の統合を推進中、軍事革命が起こった。丁來赫長官による統合作業は軍事作戦のように進められた。
まず、電力3社の社長を軍人に交替した。彼らは6月8日まで、従業員を1654人削減し、労組を解散し、株主たちの反発を沈黙させた。6月21日までに統合による事務処理を終え、最高会議が6月23日、韓国電力株式会社法案を議決し公布して、電力3社は解散された。韓電の社長には9師団長の朴英俊少将が任命された。民間政府が10年間できなかったことを1カ月で行った。韓国電力は7月1日、正式に発足した(1982年1月1日、韓国電力公社と改称)。効率的な組織として生まれ変わった韓電はその後、工業化の動力源を供給する役割を立派に遂行する。
革命政府のこのような迅速・果敢な推進力は一般国民の支持を受けた。
特に、貧困と諦めの中にいた農民たちは革命政府の措置を注視していた。40代までの農民はほとんどが軍隊服務経験があった。彼らは軍隊で訓練を受けたため、能力のあるリーダー(指揮官)が指導すれば途方もない力を発揮する準備ができていた。
「不正蓄財者」の処理問題は紆余曲折が多かった。国家再建最高会議の不正蓄財調査班は、日本に滞在していた三星物産の李秉喆を除いた韓国の10大企業家を含む11人を拘束した。金鍾泌は、自分は企業家たちの拘束は考えず、最高会議が決めたと証言した。
「私は実業人たちを活用すべきだと思っていました。盗みも、やってみた人がやるものではありませんか。韓国日報の張基榮社長に会ったら”今、最高会議が実業人たちを拘束しているようですが、これは駄目です。極東海運の南宮錬氏に会ってみなさい”と言いました。それで私が夜、南宮錬の家を訪ねました」
南宮錬はこう話したという。
「革命はよくやりました。革命が成功するためには実業人たちが参加せねばなりません。経済活動は経済人たち自らやるようにすべきで、政府が過度に関与してはいけません。政治家たちにも不正・腐敗した人々が多いですが、彼らの知恵と経験を活用しなければなりません」
金鍾泌は、最高会議が実業人たちの拘束を発表(5月28日)した翌日、朴正煕副議長を訪ねて南宮錬の忠告を伝え、拘束された人々を釈放して欲しいと夜通し説得したという。「実業人たちのほかに経済を立てられる人々がいますか。経済に対して分かる人々を集めたところで、学者たちだけではありませんか」
朴正煕副議長は「最高会議がそう決めたことだ」としたが、「私も実は拘束に同意しなかった」「明日処理しよう」と言った。金鍾泌は、日本に滞在中の李秉喆氏へ「安心して帰国しなさい」と連絡したという。東京にいた李秉喆はこんな心境だったという。
(つづく)