四天王寺ワッソ【第5回】高句麗に由来する祇園祭

韓日交流の歴史を紐解く
日付: 2018年09月20日 00時00分

大興王の登場にわく大阪市民たち

 前回に続き、ワッソパレードに登場する韓半島の国々と偉人たちの足跡をたどってみたい。四天王寺ワッソ実行委員会の製作映像と追加取材を基に、密接な関係にあった韓日交流の歴史を紐解いてみよう。
(李民晧ワッソ取材チーム長)

 ワッソパレードは韓日交流史、東北アジアの歴史教育を体験できる場だ。その中でも、高句麗の偉人たちが日本と結んだ縁の歴史もやはり注目に値する。
高句麗(BC37~668)は、現在の北韓の首都・平壌を中心に韓半島北半部、中国大陸までをも支配した古代国家だ。斉明(在位655~661、百済系の女王)在任期の656年、高句麗の使節・伊利之使主は、新羅の牛頭山の神・素戔嗚尊を京都へ迎え、祭祀を執り行った。
伊利之は、日本の皇室から八坂造という姓を与えられた。つまり八坂は、伊利之の日本名となる。高句麗の使節が素戔嗚尊を慕い、建立した神社が今日の八坂神社だ。
八坂神社の「祇園祭」は毎年7月、京都一円で盛大に行われている。このように、日本の3大祭りは高句麗が起源である。
日本書紀には、当時日本に渡ってきた高句麗使節は伊利之を含む全81人であると記録されている。
ワッソに登場する高句麗の主要人物は、伊利之と僧侶・曇徴と法定、将軍・乙支文徳と淵蓋蘇文などだ。高句麗の渡来人のリーダーである若光も欠かすことのできないワッソの主要人物の1人だ。
若光は、高句麗最後の王・宝蔵王の息子との説があり、一族と共に在日高句麗集落を主導した人物として伝えられている。
高句麗渡来人らの痕跡は、今も埼玉県を中心として日本のあちこちに残っている。高麗市、高麗神社、高麗川、JR高麗川駅などがそれだ。韓国の古代から伝承されている村の守護神・長生が立てられていることでも分かる。
一方、在日同胞たちの間で話題となった高句麗の登場人物がいる。大興王だ。
ある大阪の在日同胞たちは「大阪興銀王」の略字だと信じている。主催の興銀が創作した仮想人物だと誤解された存在だが、大興王は実存する歴史上の人物だ。高句麗第26代の国王(在位590~618)であり、中国・隋国と東北アジアの覇権を争った人物だ。
大興王は、激動する東北アジア情勢の中で、倭とも友好関係を結んだ。日本書紀には605年、奈良・飛鳥の大仏を建立する際に大興王が金300両を贈ったことが記録されている。
高句麗700年の歴史で最高の名将は、大興王執権期に生まれた。612年、高句麗軍は自国に侵入してきた100万人に及ぶ隋の大軍と、国の存亡をかけた戦いに臨んだ。
総司令官の乙支文徳は、戦略のひとつとして30万人の敵軍を薩水(現在の平安道清川江)に誘導し、約30万人にも及ぶ隋の兵士を水攻めで水死させるという戦績を挙げた。その後も隋が劣勢を挽回するため、613年と614年にかけて高句麗を侵攻したが、全て失敗に終わった。これに留まらず、中国大陸を統一した大帝国・隋は、高句麗との闘いにより国力を消耗。国内の動揺と葛藤により滅亡に至った。
この時期、倭国は遣隋使を5回にわたって派遣し、当代の強国・隋との関係改善を試みた。遣隋使の企画者は、聖徳太子の師にあたる高句麗僧侶の慧慈だった。
草創期のワッソでは、聖徳太子の命を受けて隋に渡った遣隋使・小野妹子と、その答礼として訪日した隋の使節・裵世清による物々交換の儀式を再現した。
四天王寺の境内では、まるで今日の日本外交かと思わせるようなコメントが聞かれた。
「(日本の)遣隋使派遣と裵世清の日本訪問は、聖徳太子が実施した(周辺)各国との等距離外交最大の成果といえます」(つづく)


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