クーデターで憲法を停止させた軍人たちが、法令を整備し独立した法治国家としての面目を一新したと評価された。
制憲憲法の第100条は、「現行法令は、この憲法に抵触しない限り、効力を有する」と規定した。それで、米軍政の法令や植民地時の法令、朝鮮王朝の法令まで使用した。
李承晩政府は建国1カ月後(1948年9月15日)、法典編纂委員会を公布し、民事、刑事、商事など基本法の制定に着手した。休戦後は刑法をはじめ刑事訴訟法、民法、民事訴訟法、商法の順序で基本法の制定作業をした。
また、6・25戦争中の51年5月12日、大統領令第499号で、法令整理刊行委員会を設置し、政府樹立前に制定された各種旧法令を翻訳、改正、制定、廃止に着手した。だが予算不足などで進行が進まず、軍事革命が起きるまで「未だ英語と日本語で書かれた法令によって統治されている」という怒りを買っていた。
最高会議の李錫濟法司委員長は、法令の整備も軍事作戦のように推進した。最高会議は61年7月15日、法律第659号で旧法令の整理に関する特別措置法を制定し、62年1月20日まで整理されない法令は実行すると宣言した。
政府は、既存の法令整備委員会を再編、内閣首班所属で内閣事務処長を委員長とした。政府は5カ月間の期限を定め、各部処が作った法令案を、国会の機能をしていた最高会議で迅速に通過させた。軍事革命前まで13年間整理された法律が115件だったが、革命政府6カ月間整備した法律が352件となった。
『法制処50年史』はこの作業の意味をこうまとめている。
「旧法令の整理事業が62年1月20日完了しにことで、韓国は独立した法治国家としての面貌を一新し、すべての法令が憲法を基本として、その下位法令として法律、大統領令と総理令、部令という法体系が確立された」
革命政府の改革によって誕生したのが電力3社の統合による韓電の誕生だ。
革命政府の商工部長官は、丁來赫少将だった。陸軍本部軍需参謀次長を経て国防大学院に入学して勉強中、長官に抜擢された。日本陸士で、朴正煕より一期後輩だった彼は、軍内で明晰な頭脳を持つ将校との評判だった。丁長官が就任した商工部は工業立国を目指す革命政府で重要な役割をなすことになる。
当時、多くの将校たちが工業化の可能性に対して懐疑的だった。丁長官は局長会議を招集してうれしい顔に会った。国防大学院で勉強したとき講師としてきた咸仁英局長が工業局長を務めていたのだ。咸局長は当時の一般的な悲観論とは違って非常に楽観的な講演をしたため丁長官は深い印象を受けた。
「韓国を工業化の不毛地と思ったら誤算です。もちろん日本と台湾には遅れていますが、工業化できる芽があります。援助資金で建てた韓国ガラス、東洋セメント、忠州肥料工場もあります。こういう施設を運営した経験を生かして、われわれもやってみることができます」
丁来赫長官は、幹部たちに、「皆さんが多くの計画を立てて机の引き出しの中に入れておいたはずです。これからそれらを全部出して、光が当たるようにしましょう。私が応援します。」
当時商工部の4大懸案は電気3社の統合問題、中小企業金庫の設置、石炭の増産、公企業の活性化だった。革命政府は、ほとんどの公企業の社長を将校で交替した後、構造調整を強行し始めた。
(つづく)