四天王寺ワッソ【第3回】「帰化人」から「渡来人」へ 呼称変更の秘話

1400年に及ぶ韓日交流史 歴史考証の険しい道のり
日付: 2018年09月05日 00時00分

 ワッソ祭りを準備する中で、最大の難関は歴史考証だった。1400年にも及ぶ韓日間の長い交流の場面を再現するとなると、各時代別の衣装と音楽、踊りを調べることが必須だった。(李民晧ワッソ取材チーム長)

 ワッソの企画者で、当時の大阪興銀副理事長の李勝載氏は語る。 
「まず新羅、高句麗、百済、耽羅人たちがどんな装いをしていたかを調べました。韓国考古学の権威、金元龍ソウル大教授に尋ねたところ「そういう資料は残っていない」との回答でした。仕方なく、奈良の高松塚古墳で発見された壁画と遺物をベースに作ってみることにしました」
そうして古墳壁画を基に、古代人の衣装や装身具、帽子などを制作した。日本側の考証は、京都大学の上田正昭教授に依頼して進めた。次の課題は、踊りと歌を再現することだった。通りを行進する巡行を、無音という無味乾燥な状態で行うわけにはいかないとの判断だった。
「三国時代の歌と音律の原型を探すのは不可能でした。やむを得ず、高句麗は江原道、新羅は慶尚道、百済は全羅道を捜し歩き、その地方の民謡を脚色することにしました。不思議なことに、古代済州の耽羅国(不明~1402年)の音楽は、昔のものが残っていました」
各国に合うようリズムと音を制作するのは、さらに難しい作業だった。この時、韓国の知人から紹介されたのが許圭氏(1934~2000)だった。パンソリの「春香伝」をオペラに仕立てて日本公演を行い、88年ソウルオリンピック閉会式の構成と演出を担当した専門プロデューサーだった。
85年には、南北8・15光復節イベントで韓国芸術団を率いて、平壌公演も行った実力者だ。韓国伝統音楽を祭りと唄劇に編曲し、大衆を沸かせた韓国トップの専門家を招請したのだ。
これが縁となり、大阪興銀は職員たちを選抜し、スピードアカデミー練習のため韓国へと送った。伝統の踊りと唄、楽器演奏法を習って帰ってきた彼らは、コーチとなって職員たちに自らが学んだものを伝えた。練習は、平日は業務終了後に、休日はほぼ終日行われた。
「ともに練習する時間が長かったせいでしょうか、結婚したカップルも3組現れました(笑)」
時代考証の過程は厳しいものだった。李勝載副理事長と上田教授は、会うたびに論争を繰り広げたという。例えば、日本で最も古い正史である「日本書紀」には、647年に金春秋が人質として日本にきたとの記録がある。
しかし、当時の国際情勢と金春秋の新羅での地位(王族、新羅29代武烈王)を考えると、それは誇張されている確率が高い。金春秋は642年に高句麗、648年には唐(中国)を外交使節として訪問している。金春秋が日本を訪れたのも、外交使節としての訪問だったものと類推できる。
「私は『書紀の記録は日本のオタクがつくった歴史であり、嘘もある。新羅の英雄的人物が人質として来るはずがない』と問い詰めました」
日本書紀が編纂された720年は、新羅が高句麗、百済を統合した韓半島最初の統一国家時代だ。韓国国史編纂委員会は、日本書紀は『日本の支配層が天皇家の悠久性と尊厳、支配の妥当性を明確化することを目的として編さんした、高度の政治性をはらむ歴史書』とみている。この歴史書には、当時の日本が韓半島南部を支配したという「任那日本府説」や「帰化人」などの用語が登場する。これについて、現ワッソ文化交流協会の李慶載副理事長はこう話す。
「帰化とは身分の低い人が身分を上げること。すなわち日本を慕い、日本人になりたいという意味を持つ。先んでた文化を持つ韓半島の人間がなぜ帰化人になるのか、という問題提起をしました」
当時の「帰化人」という用語は、金達寿ら在日同胞の学者たちの問題提起により「移住者」を経て「渡来人」へと変更されていった。海を渡り日本に定着した韓半島出身者、現在一般的に認識されている「渡来人」という言葉の定着は、こうした歴史考証の論争の中で矯正されてきたのだった。
(つづく)


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