大韓民国の建国史(121)革命主体の分化と権力秩序の再編

日付: 2018年08月29日 00時00分

 金鍾泌中領が中央情報部長としてメディアに現れたのは6月5日だった。彼は最高会議の会議室で内外信記者たちに5・16革命の秘話や革命政策の基調を説明するなど、実力者としての面貌を誇示した。彼は「4・19義挙」直後の陸軍士官学校8期生中心の「整軍運動」を5・16革命の根として話を展開した。彼は「朴正煕将軍と張都暎将軍は、今年の3月に加担した」、「張都暎総長は、情報が漏洩されるたびにうまくカーバーしてくれた」と語った。自分が革命の企画者で、朴正煕は推戴されただけという感じを与える程度だった。
金鍾泌は「革命公約、初期の布告令、国家再建最高会議という名称は、私が提案し朴正煕将軍の修正を受けた」、「革命を構想しながら(張俊河が発行する月刊雑誌)『思想界』を多いに参考にした」、「元々は、内閣を構成するとき、45歳以下にしようとした」と述べた。
経済政策にも触れた。「究極的目標は自由市場経済体制が、そこに至るまで、また革命直後の混乱を収拾するため、一定期間は計画経済の段階を経なければならと考えている」
国政全般に対する30代の将校の所信は、多くの記者たちに深い印象を与えた。金鍾泌部長は「今回の革命を成功させるため使った資金は860万ウォンだけ」と言って記者たちを笑わせた。彼は朴正煕将軍が自分の妻の叔父であることも公開した。
臨時憲法である国家再建非常措置法が公布され、張都暎議長が国防長官と陸軍参謀総長職を辞任し、朴正煕副議長が最高会議常任委員長を兼任したのは6月初めだった。これは張都暎将軍の無力化を意味した。張都暎の立場に同情する将校もいたが、彼を支持したり、忠義立てする将校たちは一人もいなかった。
張都暎自身も朴正煕と金鍾泌の独走に不満をいうだけで支持勢力を糾合する権力意志もなかった。新しく陸軍参謀総長に任命された金鐘五将軍と宋堯讚国防長官は、革命主体である若い将校たちには、かつて整軍対象とされた人物だ。朴正煕や金鍾泌に挑戦する人物でない。
張都暎議長は戒厳令の早期解除、民政への早期移譲、過激な農漁村高利債整理の緩和、無理な不正蓄財処理の緩和など穏健な措置を強調したが、彼の主張は青年将校たちに無視された。彼は6月8日、朴正煕副議長を呼んで「最高会議議長は戒厳司令官である陸軍参謀総長が兼任すべきだ」と言い、議長職から退くと宣言した。張都暎は中央庁の総理室で起居しながら、内閣首班職のみを遂行し始めた。
武力で政権を取った軍人たちは、社会が安定を戻しながら、新しい論理が適用される時代が展開されるのを感じ始める。5月18日までは政権を物理的に覆す革命の時間帯だったとしたら、その後は国家管理の時間帯だった。革命の瞬間には、突破力と決断力を持つ人々が必要だったが、管理の時間帯には管理や経営能力が必要だった。
金鍾泌、李錫濟、呉致成、張坰淳のような将校たちがそのような能力を発揮し、変化した舞台でも影響力を維持していった。
頭の回転が鈍く勇気だけの将校たちは、新しい時代に適応できず押し出され淘汰された。大韓民国を接収し長官から警察署長まで主な職責の大半を占めた軍人たちにも、また新しい競争の時代が始まったのだ。
(つづく)


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