洪熒 本紙論説主幹
農漁村高利債法が、中央情報部を公式創設した1961年6月10日に一緒に制定されたことを見ても、革命政府がこの問題をどれほど真剣に見ていたのかが分かる。申告された高利債は、農業協同組合が債権者に年利20%の農業協同組合債権を支給して債務を清算した。代わりに、農漁民は農協に5年間、年利12%の条件で債務を返済することになった。
61年の年末まで480億圜の高利債が申告されて293億圜が高利債とされ、組合の融資対象となった。だが、政府が民間金融市場に無理に介入した高利債整理事業は副作用も大きかった。農漁民は債務の重圧から脱したものの、農漁村の私金融は麻痺した。軍事政権の初期政策は、即興的で非体系的だった。軍事政権はミスを繰り返しながら、経済の厳しい現実を直視、正確で実用的に取り組む能力を培った。
軍事政権は62年6月12日、新旧貨幣を10対1で交換する通貨改革を断行した。通貨が「圜」から「ウォン」に変わった。軍事政権は貨幣改革を通じて民間預金の実態を把握し、その一部を凍結して産業資金に当てようとしたが、予想外の衝撃で企業活動が停止するなど、経済はむしろ危機に陥った。軍事政権の拙速通貨改革は失敗した。米国も、援助を受ける韓国政府が何の相談もせず一方的に断行した通貨改革を非難した。米国は、韓国政府の予算の半分以上と国防費の72・44%を提供していた。軍事政権は凍結した5万口座の預金を早期に解除した。
軍事クーデターが革命として国家体制を変える課題を実行するためには、効率的で強力な情報力が必要だった。この歴史的な課題のための組織を作るのも、革命政府の課題だった。金鍾泌は5月16日の夜、陸士の同期生で陸軍諜報部隊諜報課長だった崔英澤中領と中央情報部創設を協議した。
金鍾泌は同19日、崔英澤中領に張勉総理直属の中央情報委員会の李厚洛室長から業務一切を引き受けるよう指示した。崔英澤は李厚洛と連合参謀本部で一緒に勤務したことがあった。李厚洛は業務引き継ぎに快く同意した。
李厚洛は自由党政権の金貞烈国防部長官に抜擢されて長官直属の中央情報部を創設、この部隊名に自分の軍番を付けて「79部隊」とした。79部隊の主な任務は米CIAとの情報交流だった。李厚洛は張勉政府でも陸軍少将から民間人になって同じ業務を遂行した。だが、情報委員会は警察や軍の情報機関などを統括する国家情報機関として機能していなかった。
金鍾泌は翌20日、軍事革命委員会の委員たちに「国家再建最高会議」の組織と機能など、革命政府の統治機構の組織について報告した。金鍾泌は国家再建最高会議直属の中央情報部と再建国民運動本部を置くことも報告した。崔英澤は翌21日、李厚洛の情報委員会の業務を引き継いだ。
中央情報部は陸士8期と陸軍本部情報局勤務者を中心に組織し始めた。中央情報部法は申直秀弁護士の助けで法案が完成した。申直秀弁護士は中央情報部の法律顧問となり後に情報部長になる。情報部の要員は防諜隊、政府局、諜報部隊、憲兵隊、警察などの捜査機関で選抜した。金鍾泌は国家再建最高会議が承認した中央情報部創設に自分が部長に就任し、核心幹部たちも自分の人脈で充てた。
中央情報部法は強大な権限を与えられた。中央情報部は軍政期に朴正煕議長の全面信頼を得て権力の核心として、政権を安定させ、軍政以降の政府と政党などを準備するようになる。 (つづく)