民団―総連・70年の闘争史 5・17和解→瓦解工作の教訓

親韓国系同胞組織を平壌政権に捧げるため
日付: 2018年08月15日 00時00分

4問題点「情勢との乖離」「主体性の放棄」「共生基盤の損傷」「原則逸脱」

 今から12年前の2006年5月17日、民団と朝総連はいわゆる「5・17共同声明」を発表した。大義名分は在日同胞社会の和合を図ろう、両組織の和解を促進し、さらには組織の統合を通して日本で南北統一を成し遂げようというものだった。しかし、「和合」という言葉の本質は「民団瓦解工作」だった。当時の教訓を振り返る。(ソウル=李民晧)

『統一日報』編集部が編著
 当時の民団中央本部・河丙鈺団長ら3機関長はこの日、東京・千代田区の朝総連本部を訪問。徐萬述議長らと会談し、共同声明を発表した。合意事項は民団と朝総連が6・15南北共同宣言実践のための民族的運動に積極合流し、6・15民族統一大祝典に日本地域委員会代表団メンバーとして参加する、などだった。しかしこの直後、この合意を取り巻く黒い動きが露呈し始めた。まず判明したのは、河団長の履歴が詐称されていたという事実だった。
同氏は青年時代、北韓労働党の革命戦士養成所とされている東京の朝鮮大学で学び、その後朝鮮学校の教師として勤務した経歴が暴露された。同年2月、「民団改革」を打ち出して出帆した新任団長の正体がそれまで秘匿されてきたのだ。
5・17の和合劇の奇妙さは随所で確認された。合意過程に親北追従者ないしは北韓の工作員という疑惑のある人物らが関与しており、数回にわたって謀議したことが明らかになった。それだけではない。両者の協議に関与した核心人物こそが、韓国最高裁判所が反国家団体に指定した「韓統連(旧韓民統)」のリーダーだったのだ。
韓統連は70年代初頭、民団破壊活動を行って追放された反民団団体だ。両者が合意した6・15行事の参加を管轄する6・15日本委員会の代表は、ほかでもない民団から除名された郭東儀(当時の韓統連常任顧問)だった。河執行部は4月24日、委員会に民団が6・15行事に参加できるよう善処を求める提議書を発送した。郭氏は直後の4月27日、ソウルで韓国のインターネットメディアのインタビューに応じ、朝総連、韓統連とともに民団が6・15統一祝典、8・15祝祭に参加すると明らかにした。
さらなる問題は、この危機に対し、駐日韓国公館が民団組織の動きをスルーしていたことだ。同年2月、団長選挙の介入説がそれだ。公館員らが陰に陽に河氏の選挙運動に積極的に動いたことで、民団内にその公館員5人を示す「民団五賊」という用語まで作られた。 民団コミュニティーの公館不信がどれほど大きかったかを見せつけた格好となった。
次々と明るみに出た状況と証拠により、5・17事件は利敵志向者が民団を朝総連に吸収させようとした謀略劇、ないしは南北和解により親韓国系同胞組織を平壌政権に捧げるための工作であるとの結論に至った。
在日同胞社会では5・17を「和解騒動」とも呼ぶ。だとすると、当事者である民団は5・17をどのように認識しているのか。
今年2月に発刊された「民団70年史」には、四つの問題点が挙げられていた。
まず挙がっていたのは、情勢との乖離だ。
「民団と朝総連が中央本部レベルで和解と交流協力を図ることは宿願だが、当時の情勢的環境が不十分だった」との記述が登場する。その根拠として、朝総連や北韓に対する日本の世論悪化を挙げた。しかし、理念体制における南北代理戦の場である日本で、韓国政府の準公務員的機能を遂行してきた民団が朝総連を対等な関係と見なすことは「ありえない」のだ。南北のうち、どちらの体制が正しいかは一目瞭然だ。3万人にも満たない朝総連を並列に扱うという点にも問題がある。北韓の独裁政権の出先機関を和解の対象として認める記述は「大韓民国の国是を遵守する民団」とは乖離がある。
二つ目は、主体性の放棄を挙げている。河執行部は、2003年から始まった「脱北者支援民団センター」の活動中止要求を拒むことがなかった。これには朝総連と裏合意があったという説もある。
三つ目に、共生基盤の損傷を挙げた。民団が標ぼうする「生活者団体」運動、日本社会との共生という趣旨に合致しないという点だ。朝総連が北韓の日本人拉致をほう助(または関与)した疑いがある中、日本国民の怒りと被害者の痛みを考慮せず、これまで積み重ねてきた日本社会との共生基盤が損傷したとの分析だ。
四つ目には、深刻な原則逸脱が挙げられた。民団組織の意思決定プロセス、規約遵守の伝統を壊したというものだ。中央執行委員会の検討と議決が省略され、河執行部が秘密裏に動き、独断で決定したという点だ。6・15日本委員会の正体である「韓統連」の前身、「韓民統」に対する敵性団体規定解除のプロセスも省略した。民団はこうした違反が自由民主主義理念の否定であり、組織の秩序の破壊行為であると分析した。
5・17騒動から1カ月後の6月24日、民団は臨時中央委員会を開き、5・17声明の白紙撤回を宣言した。続いて北韓がミサイルを発射した翌日の7月6日、河団長は談話文を通し「韓日両国民を不安に陥れた北韓の暴挙を深刻に受け止め、現状況では朝総連と交わした5・17声明の合意事項を履行することはできない」と発表した。同年8月、河団長は「健康上の理由」を名目に議長あてに辞表を提出し、辞任が承認された。
民団70年史には、5・17共同声明が立ち消えとなった原因を「北韓の蛮行のため」「当時の情勢的環境のため」と記すなど、問題の転嫁を図るような記述がされている。自分たちの組織を瓦解させようとする攻撃を受け、さらには祖国・大韓民国の破壊工作を行おうとした証拠も十分にそろっている。
民団1世たちは、共産独裁勢力や北韓労働党日本支部・朝総連とまさに命をかけて最前線で闘ってきた。現在の民団に果たして自我意識と主体性はあるのか。民団闘争史を振り返り、そう問いたい。  


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