大阪名物「四天王寺ワッソ」28年の軌跡

在日に勇気を、韓国人に自信を―響いた「ワッソ」のかけ声
日付: 2018年08月15日 00時00分

音楽や舞踏など華やかなパフォーマンスが繰り広げられる(写真=NPO法人大阪ワッソ文化交流協会)

 大阪の祭り「四天王寺ワッソ(以下ワッソ)」は、在日韓国人が韓日の友好を願い創設した祭りだ。1990年に初めて開催して以来、はや28年の歳月が過ぎた。民団や在日韓国人社会では知名度の高い行事だ。しかし、「ワッソ」がどのような過程を経て作られ、何を意味するかを知る人は少ない。「ワッソ」の礎を築いた人々に話を聞いた。
(大阪=李民晧ワッソ取材チーム長)

 毎年11月第1週の日曜日、大阪・難波宮跡には数万人の人波が押し寄せる。難波宮は約1400年前、日本初の行政改革である大化の改新が宣言された場所だ。難波宮の大極殿は、外国の使節を受け入れる場所だった。毎年この由緒ある史跡で、古代の渡来人らが母国の百済・新羅・高句麗・耽羅・伽耶などから来た使節を迎える光景を再現する儀式が行われている。それが「ワッソ」だ。

ニューヨークの衝撃

本来「ワッソ」が開催されていた場所は四天王寺だった。古代大阪なにわの津の迎賓館として、古代日本を代表する知識人・聖徳太子が創建した寺だ。
聖パトリックデーがモデルだった
「ワッソ」は大阪興銀(現関西興銀)から始まった。設立のリーダーは、興銀の李熙健理事長と李理事長の長男、李勝載副理事長だった。猪熊兼勝・大阪ワッソ文化交流協会理事長は「李熙健氏には『母国である韓国と、社会人として育ててくれた日本』に対して恩を返し、未来を展望する行事を企画したいとの思いがあった」と話す。当時の興銀職員、金基弘氏は「誰が何といっても一番の功労者は李勝載氏。彼が企画から調査、完成に至るまで総合的にプロデュースした」と明かす。李副理事長がワッソを企画した動機は思いがけないものだった。
それは80年代後半のある日、ニューヨーク出張の折だった。「道路を歩いていたら、多くの警察官が突然通行止めを指揮した。その後、大通りの真ん中に数万人のグリーンのシャツと帽子をかぶった人々が現れ、バグパイプの演奏などと共に通り過ぎた。アイルランド系移民による「聖パトリックデー」(3・17)の行列だった。
李氏はその光景にしばし呆然とした。移民の祭りのために、権威的で知られる米国警察が数時間もの間、ニューヨークの大通りを開け、さらには親切に交通規制まで行ったのだ。まさに驚くべき光景だった。その時、「これだ」と膝を打った。
「日本で暮らす韓国人は、一堂に会す機会がほとんどなかった。離れて暮らす同胞たちが集うチャンスを作ってみたいとの考えが浮かんだ」

ネーミング秘話

「ワッソ」を知る上では、背景を理解する必要があるだろう。
85年は、大阪興銀の創業30周年だった。当時の興銀の目標は、90年代には在日韓国人社会と日本社会を対等な関係にすることだった。同胞の意識を高揚させ、韓国人も平均的な日本人と同じレベルに到達させること。これに対し、ワッソの企画に参与した崔博文氏はこう話す。
「88年のソウルオリンピックを機に、日本人の韓国観に変化が見られるようになりました。韓国人、在日同胞といえば、見下されていた視線が徐々に向上してきました。その時点での『ワッソ』は、新たな在日韓国人作りであり、一種の意識高揚運動でした。また、大阪の国際化を促進する側面としても大変意味のあるイベントでした」

モデルは「聖パトリックデー」

興銀職員らの奮闘

 「ワッソこそが人生」とする李秀明SBJ銀行調査役は、その目的に対しこう語る。
1995年のパレードのもよう

「在日同胞が勇気をもって暮らせるようにすること。アイデンティティーに自信がない彼らに、自分のルーツは何なのかを覚醒させること。韓半島から渡ってきた古代の渡来人が日本という国を作り、現在の在日は彼らと繋がっているという事実を知らせたかったというものでした」
韓日交流史を再現することで、在日同胞にとっては劣等意識の克服、日本人にとっては韓国に対する偏見をなくすという意図もあった。李調査役は、推進段階である89年にソウルの新韓総合研究所に派遣された興銀職員で、長い間ワッソの事務方を担当してきた実務者だ。ワッソの実質的な準備は88年から90年にかけて行われた。韓日古代史をパレードで再現する祝祭の構図が形成された時期だ。当時、有力候補として挙がった名称は「古代まつり」「四天王寺祭り」というものだった。しかし李勝載副理事長はいずれの名称も気に入らなかった。
「中学時代、韓国の親戚が家に来た時、大人たちが『ワッソ』とあいさつしていました。慶尚道の訛りです。600~700年代に韓半島から渡ってきた商人たちが、大阪・新羅橋(現在の心斎橋)で商売をする際『こっち来なさい』『ワッソ』と声をかけていたものと思われます」
大阪には、高麗橋(高麗=高句麗)、百済駅など、三国時代の地名があちこちに残っている。これは、韓半島から大阪まで海を渡ってきた渡来人が暮らした痕跡だ。結果的に、「ワッソ」という韓国語の名称が祭りの名前に選ばれた。またとない名前だった。韓民族のアイデンティティーを名前に込めたのだ。日本の祭りの名前に入ったハングル、「ワーッソワーッソ!」という掛け声には、韓国伝統の音階と抑揚が感じられる。その掛け声は、初めて聞く人ですら真似したくなるような、強く訴えかけるものだ。このようにワッソは、企画から実行まで、長くいえば5年、短くいえば2年間の月日をかけ心を込めて幕を開けた。

毎年数十万人の見物客が訪れる
 僧侶役の興銀職員が剃髪

何をするにも、まずはマンパワーと資金だ。興銀は、全盛期には預金高1兆円を超える日本最大の信用組合だった。一方で、厳然たる本業は金融業であり、決してワッソの専門組織ではない。ワッソ草創期の所有資金は約25億円で、相当な金額だった。
興銀と取引のある顧客らは、渡来人たちが海を渡る際に乗った大型木造船”舟だんじり”、王が乗る”興”など、ワッソが再現する乗り物の製作費を支援した。舟だんじりの場合、1台あたり約3000万円から5000万円ほどの費用が必要だが、全てスポンサーを確保することができた。製作費のスポンサーは、該当する乗り物に主人として名前を連ねた。
興銀内部では、ワッソ専門の部署ができ、職員らにはワッソへの参加が義務付けられた。歴史考証のため、韓国と日本を代表する歴史学者を招聘。金元龍・ソウル大名誉教授と上田正昭・京都大学名誉教授が中心となった。担当職員は、日本書紀、古事記などの史書を通読した。
「日本書紀は、上下巻合わせて2000ページを超えていました。全て旧字体の漢字だったため、非常に苦労しました。しかし担当者らは全て読みきりました。ワッソプロジェクトを成功させるためには必読すべきだと信じていたのです」(崔博文氏)。
古書を読むたびに衝撃が走った。例えば、これまでは漢字や仏教は中国から来たものと考えていたが、文献を読むことでそれらが韓半島から渡ってきたという事実を発見したからだ。こんなこともあった。
「(日本の3大祭りである)京都・八坂神社の祇園祭りは、スサノオを祀っています。そのスサノオが渡来人だというのです。スサノオといえば、1000年以上続いてきた日本の代表的な祭りの主人公です。李勝載氏は『スサノオがワッソを見たら、我が子孫たちは頑張っているな、と感じるだろう』と話していました」(金基弘氏)。

韓半島の踊りと音楽を伝える

エンディング音楽の作曲も

  金基弘氏は、特別な任務を与えられた。エンディング音楽の作曲を任されたのだ。
「依頼がきたときに非常に悩みました。一般人がどうやって作曲するのかと。仕方なく、知り合いの音楽プロデューサーに手伝ってほしいと頼みました」
完成した音楽は、国別にアレンジされたものだった。高句麗、新羅、百済、耽羅、朝鮮など、国別に曲調が異なるテーマ曲を制作したのだ。
韓半島の音楽と踊りが披露され、ラッパや大太鼓の音が響き渡る
高句麗は北方の騎馬民族を彷彿とさせ、百済は文化の国にふさわしく優雅に、三国統一国家である新羅は壮大に。
衣装と楽器、小道具、祭祀用具などの製作は、韓国と日本の専門家にそれぞれ注文した。
興銀の中には、時代別の音楽と踊りを学ぶためにソウルに派遣された職員もいた。15人が1カ月間、スパルタ式でテグムや太平簫などの韓国伝統楽器を学んで帰ってきた。いわば「スピードコーチ養成アカデミー」で韓国文化を学んできた。
日本に帰国した職員たちは、1人につき50人ずつを担当するコーチとなった。興銀職員たちは、勤務が休みの土日ごとに楽器演奏と発声、踊りを練習した。この一員だった李相和氏もやはり、パレードに僧侶役で出演し、剃髪まで実行したほどワッソの熱烈なメンバーだった。
「ワッソのシナリオは、大苦労を重ねて誕生した力作でした。鉛筆で書いた草案を宝のように保管していましたが、どこかに失くしてしまいました。当時のコンセプトは『友情は1400年の彼方から』で、過去から現在までの韓日関係が凝縮された表現でした。皆、苦労はしましたが参加者たちは本当に幸せな気分でした」
こうした一連の過程は「新韓銀行李熙健50訓」にある「傍観者にならず参加者になれ」に通じている。
日本の祭りでは「踊る阿呆に見る阿呆」という言葉がある。どうせやるなら踊らないと損だ。どんなことでも自主的に動き、見物ではなく自ら参加する方が良いという論理だ。

大通りで初の再現パレード 沿道には46万の見物客

日本の教科書にも登場

 「1990年8月19日、難波南部の空に鉦や笛、ラッパや大太鼓の太く高い音色が響き渡った。日本では聴きなれない音階だった。大通りのある谷町筋を南側へ四天王寺に向かう約3600人の華やかな衣装の大行列は、大阪市民の目を奪った。沿道は数十万人の見物客で埋まったと報道された。観衆の中に、鶴橋の近くに住んでいた済州道出身の少女、アン・ミカの姿があった。著名なファッションモデルとなったアンは、『大人になったらワッソに参加することが夢でした』と話した」
1990年8月19日、大阪に響いた「ワーッソワーッソ」

猪熊理事長が整理した「ワッソの足跡」の一部だ。猪熊理事長はあすか時代の研究者であり、初の開催時にはアドバイザーの一員として参加した。現在はワッソ実行委員長と理事長を兼任している。猪熊理事長は、メイン舞台である四天王寺「石舞台」で見た光景をフィルムのように鮮明に記憶していた。
「在日同胞の老婦人がずっと涙を流して舞台を注視していました。様々な差別を受けながら暮らしてきた日本の地で、韓半島の音楽と踊りが披露される場面に感情を抑えることができなかったのです。その日の感動により、この祭りを継承していくべきだという考えに至りました」
上本町から四天王寺に向かう谷町筋1・6キロメートルの区間で、ワッソのパレードが行われた。沿道に詰めかけた観客は1日で46万人に達した。ワッソ構想者の李勝載副理事長がニューヨークで目撃したアイルランド系移民の「聖パトリックデー」のパレードが、まさに日本の大阪で実現した瞬間だった。
ワッソの参加者と観客たちは、国を問わず「歴史の再現」に感動し「生きた歴史の勉強の場」として盛大な拍手を送った。
振り返ると、膨大な苦労があった。興銀職員たちは、パレードの成就に向けて1年半前から警察と交渉を重ねた。交通規制と保安問題という難題に直面したからだ。
「警察は、前例がないから不許可の一点張りでした。さらに、管轄区域が3区域にわたっていたことも問題でした。一つが解決すればまた別の問題が次々と発生し、まるで嫌がらせを受けているかのような気分でした」(崔博文氏)。
ついに警察の説得に成功した。ワッソ専門チームのメンバーは、異口同音に「ゼロベースから出発し、超えられないと思っていたハードルをは全て超えることができた。ワッソは、真に情熱を持ったリーダーがいなければ成し遂げ
1995年11月、勃海王大祚榮一行が大阪谷町筋を練り歩いている
られなかったプロジェクトだ」と証言した。
ワッソパレードの全過程は、大阪・毎日放送(MBS)のテレビやラジオで生中継された。500メートル単位でスピーカーが設置され、人気パーソナリティーの浜村淳らがマイクを持って現場をリポートした。野球中継さながらだった。日本全国をみても、韓日交流の歴史上でも、こうした祭りは初めてだった。シナリオは史書中のエピソードを一つひとつ集め、精巧に作られていた。これまで王仁博士程度しか知らなかった日本人にとっては、日本と韓半島が深く関わっていることを実感する機会となった。
「四天王寺境内で行われた渡来人の歓迎式と交流セレモニーは、古代難波の最も華やかなシーンの再現だった。韓国大統領、日本国総理大臣のメッセージも披露されるなか、次々と歴史の主人公が登場し、来日の挨拶を交わした」(猪熊氏)。
ワッソのメロディーと踊りは絶賛された。日本人が日本固有のものだと信じていたリズム感とは完全に異なっていた。韓国伝統の拍子は3拍子だ。韓国の有名な民謡・アリランも3拍子だ。日本は2拍子が圧倒的に多い。
ワッソは後に日本の教科書にも登場した。「中学校の歴史資料―大阪府版(帝国書院刊)」と、韓日研究者と教師らが10年にわたって共同執筆した高校生用教材「日韓交流の歴史」(明石書店刊)に掲載されたのだ。韓日共通教科書の表紙を飾ったのも、ワッソのパレードの場面だった。(つづく)


閉じる