洪熒・本紙論説主幹
青瓦台接見室で尹潽善大統領に張都暎陸軍参謀総長が事務的にクーデターの発生を報告した。軍事革命への支持と戒厳令の追認を要請したのは朴正熙将軍だった。尹大統領は、革命軍が要求する戒厳令宣布の追認を拒否した。尹大統領は軍事革命を支持はしなかったが、積極的に鎮圧する意思はなかった。
尹潽善大統領は、革命2カ月ほど前の1961年3月22日、庶民の姿で革新系の夜間のたいまつ示威を見て、事態の深刻さを直接確認した。尹大統領は元老たちを招集し、張勉総理に挙国内閣の構成を圧迫したが、張勉総理は拒否した。
張勉総理は、明け方に市内へ進入する革命軍の銃声を聞くや、張都暎参謀総長の報告を受けて宿舎の半島ホテルを抜け出して米大使館の施設へ行ってから恵化洞にあったカルメル修道院へ逃避した。
マグルーダー在韓米軍司令官は、午前10時18分、重大声明を発表した。要旨は「国連軍司令官の資格で、本人の指揮権の下のすべての人々は張勉総理が率いる合法政府を支持するよう要求する。韓国軍の参謀総長たちは、それぞれの権限と影響力を行使して国政への統制権が直ちに政府当局に戻され秩序が回復されるようにすることを望む」という内容だった。
マーシャルグリーン駐韓米国大使代理も、国連軍司令官の声明発表直後、マグルーダー司令官の立場を全面支持する声明を発表した。この声明は革命軍を反乱軍として規定したもので、マグルーダー司令官が韓国軍に対する指揮権を持っているという点で、鎮圧命令として解釈され得るものだった。
この日、マグルーダー将軍が米合同参謀に報告した電文によれば、「李翰林1軍司令官は、マグルーダー司令官の声明を読んで、自分は韓国政府を支持すると連絡してきた」という。このとき逃避中の張勉総理が張都暎参謀総長と李翰林1軍司令官に鎮圧命令を下したら事態は逆転した可能性があった。
野戦軍の1軍司令官の李翰林中将は、麾下に5個軍団の20個師団を率いていたが、軍統帥権者の命令がない限り、鎮圧出動を考えていなかった。朴正熙将軍は野戦軍内でも陸軍士官学校5期、8期を中心とした参謀たちはもちろん、指揮官を確保していた。
午前10時30分、マグルーダー司令官とマーシャルグリーン駐韓米国大使代理が大統領府に入ったとき、尹大統領は、米国側の強硬な声明をまだ知らずにいた。マグルーダーは断固とした口調で革命軍の十倍の兵力を野戦軍から動員して鎮圧することを主張した。マグルーダーは軍統帥権を行使する張勉総理と行政府がないため、唯一の憲法機関である大統領が兵力動員に同意してくれるよう要請した。だが、大統領は、国連軍司令官の鎮圧命令要請に対して、国軍同士の流血衝突の内戦を恐れて武力鎮圧に反対した。
尹大統領は5・16成功に決定的な要素として作用する一言を言った。「わが国軍が一線から動員されることについて、私は同意できません。司令官の考えの通りならいっそ米軍を動員して反乱軍を鎮圧するのがどうでしょうか」
「われわれ国連軍は、外敵ではなく内戦には、原則的に介入できません。大統領が国軍を動員できるように許可されれば、離脱した部隊を復帰させます。市街戦を心配されますが、3万から4万の大軍がソウルを包囲し、空軍を動員してビラを散布し原隊復帰の通路を援護すれば3日から1週間で流血なしに鎮圧できます」とマグルーダー司令官は言った。
(つづく)