大韓民国の建国史(113)陸軍本部での緊迫した対峙と軍事革命放送

日付: 2018年06月06日 00時00分

洪熒・本紙論説主幹

 当初計画した革命軍の動員部隊は、空輸団、金浦の海兵旅団、6管区司令部、30師団、33師団、6軍団砲兵団だったが、30師団で密告者が出た。革命軍の指揮所と決定されていた6管区司令部は革命軍と鎮圧軍が混在して混乱に陥った。
6管区司令部の混乱で出動部隊が動けなくなるや、朴正熙は革命軍を直接出動させるため空輸団と海兵旅団に向かったのだ。漢江橋の阻止線を突破していた金潤根准将が朴正熙にまた走ってきた。
「もう一つの阻止線があります。阻止線がいくつ残っているのか分かりません。夜が明ける前、目標占領は難しそうです」
「そのまま突破せよ」朴正熙の落ち着き断固とした態度で金潤根准将も勇気を得たという。朴正熙は海兵隊の作戦を見ながら、橋に手すりにもたれてタバコに火をつけた。
この瞬間、朴正熙の決然とした態度が揺れる将校たちの心を落ち着かせたという証言は多い。予期せぬ抵抗に遭った革命軍の将校たち皆が、朴正熙を注視し、朴正熙は彼らに勇気と確信を与える行動を見せた。決定的な瞬間でのこの決定的な行動が、その後18年間、一度も正面挑戦を受けない彼のリーダーシップと権威の源泉になった。
漢江人道橋を阻止していたバリケードが最終的に除去されたのは5月16日の午前4時15分頃だった。ところが、陸軍本部は海兵隊と空輸団が漢江を渡る前の午前3時30分にはすでに計画通り6軍団砲兵団が占領した。
最終的に動員された兵力は空輸団、海兵旅団、6軍団砲兵団が中心の3600人だった。張都暎参謀総長は30師団長の報告を受けて鎮圧を試みたが、適時に必要な決断を下せず躊躇した。
革命軍の空輸団は中央放送局を占領し、午前5時過ぎ、全国に軍事革命を伝える放送をした。革命公約6個項を発表した軍事革命委員会の議長は、陸軍中将・張都暎だった。午前7時、朴正熙将軍は海兵隊の護衛を受けながら陸軍本部に入った。
張都暎参謀総長は、金信空軍参謀総長、李成浩海軍参謀総長、金聖恩海兵隊司令官を招いて対策を協議していた。革命軍に包囲された状況でまともな議論はできなかった。革命主体でないのに、最初に朴正熙を支持したのは陸軍本部作戦参謀次長兼戦争計画統制官だった柳陽洙少将だった。彼は革命の指導者が朴正熙であることが分かるや、すぐ自分の事務室に戻り外務部に電話をかけた。国連担当の幹部を呼んで、国連事務総長や友邦16カ国に送る事態説明書を作成するよう伝え、空港の閉鎖を指示した。
午前8時30分から陸軍本部の状況室で革命軍と参謀総長側の参謀たちの間に合同会議が開かれた。張都暎は戒厳令の宣言を強く拒否した。だが、9時にKBSはすでに張都暎議長名義の戒厳宣言文と布告第1号を放送した。布告15号まで作成してポケットに入れていた金鍾泌が最初の封筒を開けたのだ。
放送は5月16日の午前9時を期して全国に非常戒厳令が宣布されたことと、布告1号を伝えた。軍事革命委員会の布告第1号は出国禁止、集会禁止、言論検閲、職場の離脱禁止、通行禁止の延長、令状なしの拘禁と極刑を規定した。布告2号は午前9時を期して一切の金融取引を凍結することだった。
放送30分後、朴正熙は参謀総長室から出て革命軍将校たちに尹〓善大統領を訪ねると伝えた。
(つづく)


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