釜山政治波動のとき、軍の中立は、軍部が大統領の指示より、国連軍司令官の意図(命令)を選択した結果だったから、真の中立とは言い難い。
ところが、休戦後、韓国軍は別の意味で政治化されていた。軍の政治化は、主に腐敗と選挙への関与として現れた。李承晩大統領は、優れた用人術で二重の支配構造で軍部を掌握した。李大統領は軍部の職業的要求を充足してあげながら、陸軍特務隊を利用して軍部の監視を怠らなかった。また、軍隊内で特定の勢力が過度に肥大して大統領に挑戦するのを防ぐため、いくつかの派閥が互いに牽制するようにした。
肥大化した軍隊内の腐敗した将星や将校たちが軍需物資を横流し、私腹を肥やした。4・19は、軍隊にも影響を及ぼした。腐敗し無な将校たちを軍から追放しようという動きが現れた。軍隊の革新と祖国の近代化、そして富国強兵を熱望したのは若い青年将校たちだった。彼らは、韓国で最も近代的な組織である軍隊がなすべき役割の対して悩んだ。
中領(中佐)から大領(大佐)階級だったこの青年将校たちは、すでに将軍になっている同じ年齢の先輩たちのため、人事の停滞に昇進の機会がほとんどなかった。このような状態で、張勉政府は1960年8月27日、10万人の減軍計画を発表した。張勉政府のこの減軍構想は、米国と軍部の反発にあって撤回された。だが、青年将校たちは、自分たちが要求した、無能で腐敗した高位将校の粛正には無関心で、政府が軍を削減しようとしたことに憤慨した。
彼らは清廉で、民族主義的な軍人として尊敬されていた朴正熙少将に会ってからクーデターを夢見るようになる。4・19以降の社会的・理念的な混乱が、彼らを行動へと駆り立てた。学生たちや革新陣営の主張と要求は、市民を不安にさせ、米国の憂慮を呼び起こした。このような土壌の上で、軍隊が反共と秩序の守護者として出るようになった。
事実、建国後、教育体制が整備される前、戦争を強いられた韓国では、国軍将校団は最高に近代化された集団だった。国軍は、世界で最も近代化された米軍と一緒に共産主義に対抗して戦った。生き残った彼らは、高度に科学化され能率的な組織を運営した経験や能力が蓄積された。
6・25戦争中、そして休戦後も国軍の拡大に伴って数多くの将校が米国に行って訓練を受け、先進文物に接した。当時、韓国で米国留学の経験を持った集団は、実質上軍だけだった。朴正熙も准将のとき、米国に留学した。
だが、張勉政権は軍部を統制せねばならない重要性を看過していた。軍部とのコネクションも構築されていなかった。近代国家として安定化の要件を備えた面で、張勉政府と朴正熙が中心となった軍部は対照的だった。張勉政府が崩壊した直接的な原因は、結局は、政府が物理力を持つ軍部をコントロールするのに失敗したためだ。
ところで張勉の失敗の裏には、社会的無秩序を統制するのに失敗し、思想的に包容する姿勢が不足したことに加えて、何よりも経済的成果をあげられなかったからだ。一言で言えば、張勉政府は活性化した社会をコントロールする能力があまりにも足りなかった。このような社会的雰囲気の中、多数の一般国民は、5・16軍事革命を受容れたのだ。
61年5月16日、わずか3600人の兵力を動員した軍事クーデターは、直ちに在韓米大使館と国連軍の反発に直面した。(つづく)