大韓民国の建国史(109)政府の遅すぎた対応と官僚組織の機能麻痺

日付: 2018年04月25日 00時00分

 休戦直後から始まった平壌側の執拗な対南平和統一攻勢に呼応した左派勢力が、4・19後の混乱の中、学生運動を掌握するようになった。デモ学生たちのスローガンも不正腐敗剔刔や民主主義原則の闡明から社会主義的変革を要求する反体制的なものに変わった。
このような運動方向の転換は、「4・19」1周年の1961年の「4・19革命の第2宣言文」にも現れる。高校生代表まで参加した「民族統一全国学生連盟」集会は、民主党政府が民族統一を忌避し、統一勢力を弾圧する反民族的政権であると攻撃した。そして南北学生会談を開くと言いて、「行こう北へ、来い南へ」というスローガンを叫んだ。
革新系が体制選択問題を言い出すや、学生たちの関心は民主主義から民族主義へ移動し始めた。彼らは民族主義の名で共産主義も容認できるという統一論を主張するように見えた。
しかし、当時は6・25戦争が休戦して7年しか経っていない時点だった。一般国民には革新系や学生たちの行動は、自由民主主義を犠牲にする南北協商、中立化、共産化も受け入れるように見えた。やっと歩き始めた大韓民国の自由民主主義体制がこれ以上維持できないかも知れないという危機感が広がっていった。
国民の大多数は、これ以上の変革と混乱を望まなかった。都市の中産階級はもちろん、農地改革で農地を所有した農民たちも、社会の安定と秩序を望んでいた。革新陣営の動きが激しくなるや、張勉政府は61年3月、金達鎬、高貞勳など革新系の指導者を拘束した。
張勉政府は容共・革新陣営の動きが統一から反米へと変わるや、「反共臨時特別法」と「示威規制法」を作って革新陣営を制圧しようとしたが、大規模な粛正措置によって、警察と官僚組織が萎縮した状況では、この法律を作ることができなかった。政府の威信は落ちた。
経済第一主義を標榜していた張勉政府は、経済開発計画と国土開発計画に着手したが、政策立案にも時間がかかり過ぎた。悪性のインフレをもたらした張勉政府は米国に対して過度に低姿勢と非難された。張勉政府は日本との国交正常化と経済協力を期待して小坂善太郞外相が率いる日本親善使節団(9月6日、16人)を受け入れ、日本商品の輸入を許可したが、これも国民の反日感情を刺激した。
米国政府は1960年11月22日「韓国の展望」という報告書を作成した。この報告書は、「今後数年の間に、リーダーシップの変化と勢力再編が起きるだろうが、その場合、現在のような保守政党優位から抜け出し、社会主義勢力の力が強化されるだろう」と分析、張勉政府と韓国政治の未来を悲観的に展望した。
このような悲観的な展望は翌年の3月初め、国際協力団韓国支部の技術顧問を務めていたファリ(H、Farley)がホワイトハウスに送った「韓国の状況、1961年2月」という報告書で、さらに露骨になった。「1961年2月、韓国は病んだ社会だ」という文章で始まるこの報告書で、ファリは張勉政府の無能と腐敗を痛烈に批判し、政府が4月を乗り越えるのが難しいだろうと展望した。放っておく場合、韓国では共産革命や似たような事態が起こるかも知れないから、米国政府は一日も早く韓国に特命全権大使を派遣して改革を断行するよう積極的に介入しなければならない。もし、そうしないと、最悪の場合、軍事クーデターが起こるかも知れないと警告した。(つづく)


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