朝総連は死んで24年も経った金日成の誕生日を祝う代表団を平壌に送った。ところが、朝総連は金日成の死についてどれほど知っているのか。米情報機関の職員として韓国で勤務中、対南工作員や脱北者を最も多く面談したマイケル・リー氏が最近寄稿した金日成の死に関する内容を紹介する。
金日成は1994年7月、金泳三大統領との会談を前に急死した。ジミー・カーター元米国大統領が仲介した南北首脳会談の準備過程で、北韓が直面している状況が分かって衝撃を受けた。金日成は南韓に援助を求めるつもりだった。金日成は妙香山特閣で重臣たちを呼んで南北対話戦略を練っていた。
ところが、金正日は南北首脳会談が気に入らなかった。父親を監視していた彼は、父親の首脳会談準備を妨害した。その理由は、金日成が南北首脳会談で成功すれば、父の権威が高くなって権力の前面に復帰し、自分の地位は後退するという懸念のためだった。金正日は、金日成がジミー・カーターに、自分が南北首脳会談で成功すれば、息子を抑えて権力の前面に復帰し今後10年間は、国のためもっと働くと言った事実を把握していた。その頃は、金日成が外交使節を接見する仕事の他は、政府と党と軍のすべてを金正日が掌握していた。金正日は金日成の事務室と私邸の電話まで盗聴していた。
1994年7月7日の午前、妙香山特閣会議で、金日成が鉄道相に「今回の首脳会談のため南から金泳三大統領がくるが、飛行機ではなく鉄道を利用する。今、南北の鉄道をつなぐ作業は順調か」と尋ねた。答えない鉄道相を質したところ、鉄道相は「偉大な首領さま、その工事はやれません」と答えた。金日成はテーブルを叩きながら、「この国で、金日成の教示が実行されないことがあるか」と激怒した。
鉄道相が命をかけて、「今、全国に食糧の配給が途絶えて、労働者たちが食べられず、患者のように仕事ができないため、彼らを労働現場に動員することができません」と報告した。
衝撃を受けた金日成が「いつからこうなったのか、なぜ私がこういう話を今になって聞くのか」と嘆いたら、今度は会議に出席した幹部たちが衝撃を受けた。金正日が金日成に国の困難な経済問題をまったく報告せず、冷遇していたからだ。
金日成はその日(7月7日)の午後、事前予告なしに特閣から近い5つの協同農場を奇襲訪問した。金日成は農民から、食糧配給が中断されてから久しく、今食べ物がないため餓死寸前という悲惨な訴えを聞いた。特閣に帰ってきた金日成は、やめっていたタバコを持ってくるよう秘書に指示し、胸の痛みを訴えた。
金日成は、党中央委員会常任委員会を緊急招集した。妙香山に到着した幹部らは姜成山総理、副主席の李鍾玉、金英柱、外相の金永南などで、金正日は来なかった。金日成は翌朝、党中央委常任委員会会議を主導し、国の運命に関する重大な措置を宣言する覚悟をし、21時頃に寝たと秘書の全夏哲は備忘録に書いた。備忘録によれば、金日成は7月7日の夜10時30時頃、暖かい浴槽に入った。
そして日付が変わった7月8日の午前2時に全夏哲が浴室に入って金日成が死んでいることを発見した。 7日の夜10時30分から8日の未明の2時の間に死亡したのだ。平壌でこの知らせを聞いた金正日が党幹部と医療スタッフを同行してヘリコプターで妙香山に向かった。そのときの警護担当護衛軍官によれば、金正日は腰に拳銃を携帯したという。
妙香山に到着した金正日は、父が招集した常務委員会会議を進行し、経済対策は全然取り上げず、参加した幹部らに「金正日への絶対忠誠」を誓うようにし、金日成の遺体と一緒に平壌に戻った。平壌に着いた金正日は、護衛司令部の第2総局(金正日担当)に、万一の事態に備えて第1総局(金日成担当)の反発があるかも知れないから戦闘準備をするように命じた。
ところで、その金正日もわずか数年後、韓国大統領と会談し、経済支援を受けるようになる。朝総連は金正恩が、米国との対決で決定的な対策を立てていると信じている。だが、金正恩が当面している状況は、前述のように祖父の金日成と父の金正日も直面していた状況で、模索した戦略だ。新しいものは何もない。金正恩も父親と祖父が訪ねた中国を訪れた。世襲独裁3代目の彼も、南韓からの経済支援を期待し、強大国の認定を受けるため頑張る哀れな独裁者に過ぎない。
(つづく)