【新連載】民団中央本部初代団長としての朴烈①

日付: 2018年03月28日 00時00分

 今年で13回目を迎えた「大阪アジアン映画祭」が9日から18日まで大阪各地の映画館で開催され、全53作品が上映された。映画祭では、日本初上映となる韓国映画「朴烈 植民地からのアナキスト」がオープニングを飾った。
映画は、統治時代の日本で大逆事件を起こしたとされる朴烈と、日本人で恋人の金子文子との同志愛とレジスタンスを描いている。戦争終結による民族解放後の民団創設とは何ら関わりはない。しかし、在日社会では風化しつつある民団中央本部の初代団長・朴烈の記憶が、韓国で再び息を吹き返した。映画では触れられていない民団と朴烈との関わりを想起しながら、初代団長としての朴烈時代はどのような同胞社会であったのか。いま一度、振り返ってみたい。
(大阪=韓登)
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1923年9月、関東大震災が発生した。その際、当時の皇太子(昭和天皇)暗殺を計画していたとして在日朝鮮人12人が検挙された。首謀者とされた朴烈は1926年、大逆罪で死刑判決を受けた。その後、無期懲役に減刑され、秋田刑務所に収監された。1945年10月27日、朴烈が秋田刑務所から出所した。まさに22年7カ月ぶりの出所だった。
在日朝鮮人連盟(朝連)に熱烈な歓迎を受けた共産主義者の金天海(日本共産党党員)よりも半月ほど遅れての出所だった。GHQ(連合国軍最高司令部)は当時、政治犯即時釈放を指令していた。朴烈も10月10日までに釈放されるはずだったが、日本政府が「大逆罪の犯人であり、政治犯ではない」と主張し、朴烈の釈放を拒んでいた。
1945年10月15日、全同胞的組織を標榜する朝連(在日本朝鮮人連盟)が結成された。日比谷公会堂で開かれた結成大会には4000人の同胞が参加し、最高顧問には金天海が就任した。大会では「新朝建設に献身的努力を期す」「世界平和の恒常的維持を期す」「在日同胞の生活安定を期す」「帰国同胞の便宜と秩序を期す」「日本国民との互譲友誼を期す」「目的達成のために大同団結を期す」の6項目の綱領が採択された。閉会後には司法省までのデモ行進が行われた。代表者は司法次官に面会し、政治犯としての朴烈の釈放を半脅迫的に要求した。
金天海の時と同様、朝連は朴烈の存在を組織の目玉にすべく、猛烈に加入を働きかけた。秋田県の大館駅前広場で催された朝連主催の朴烈出所歓迎大会には、1万人をはるかに超す同胞が参加した。参加者たちは携えた太極旗を振りながら「朴烈万歳!」と叫び、迎え入れた。出所した朴烈を車に乗せ、朝連秋田県本部へと向かう大行進が始まった。当時、朝連秋田県本部委員長を務めていた金載華は、朴烈の出所手続きをはじめとする身の回り一切の世話を請け負った。
朴烈はしかし、徹底した反共思想の持ち主だった。共産主義を毛嫌いし、朝連への参加を拒んだ。これを受け、朝連の態度は一変した。「爆弾を投げただけのテロリスト」などと非難したほか、”反民族反朴烈キャンペーン”を展開して、あらゆるデマを吹聴した。朴烈の出所が金天海と同時か、あるいはわずかでも早ければ、全国組織の確立や運動戦線の展開は逆転していたかもしれないという指摘もある。
朴烈の反共意識の強さは、朴烈主宰の不逞社啓蒙紙『太い鮮人』第1号に表れた。「記憶すべき日」と題するコラム欄には、「5年前、即ち1917年11月7日、その日は露西亜(ロシア)を堕落に導いた最初の日である、ボルシェビキがロマノフ家にかわってロシアのプロレタリアートを最初に搾取した日である。万国のプロレタリアは此の日を記憶せよ、再びこの失敗の轍(わだち)を踏まぬように」と記されている。ロシア革命を痛烈に攻撃しているのだ。
朴烈は、当時のマルクス主義が説いていた「大衆による革命と議会主義」について指摘し「ゆるゆるの手段では、革命も独立もありえない」とした。革命と独立を達成するためには、天皇一族や権力中枢層に捨て身で飛び込み、爆弾を投げるなどの直接行動以外には成しえない、と信じていた。無政府主義だ。(つづく)


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