洪熒・本紙論説主幹
選挙直後から4月初めまでは、主に南部地域で示威が起きた。特に選挙当日の午後、馬山で示威中、警察の催涙弾に当たって死亡した金朱烈君の死体が4月11日、馬山沖で発見されるや、大学生たちと市民が興奮した。ソウルでは4月18日、高麗大の学生たちが示威に出た。その翌日、各大学の学生たちが示威に参加し、示威隊が景武台(大統領官邸)へ進出する事態で警察が発砲、多数の死傷者が発生した。
戒厳令が宣布されたが、示威は止まらず、25日にはソウル市内の大学教授たちも不正選挙を糾弾し、学生を支持する示威を行った。李承晩大統領は4月26日、下野声明を発表した。李承晩大統領が下野を決心する背景には、米国の介入と軍が政治的中立を堅持したことが決定的だった。
1959年12月に赴任した駐韓米大使のウォルターマッカナギ(Walter P. McConaughy)は、示威が拡散するや、李承晩大統領と面談した。マッカナギ大使は4月26日、三回目の面談の前に金貞烈国防長官に電話し、李大統領に決断を促すよう要請した。李承晩大統領は、午前に「国民が自分の辞任を望めば、そう辞任し、選挙を新たに実施する」との声明を発表した。
マッカナギ大使は声明発表の直後、李承晩大統領に会って直ちに「尊敬される地位へと引退」を勧めた。李承晩大統領は翌日(27日)の午後、国務院事務局を通じて国会に辞職書を提出した。
4・19の展開については、まだ客観的に十分に研究されたと言えない。利害関係者が多い生存しているからだ。特に、後に全体主義信者たちが作った「李承晩独裁者」論のため、韓国の一部の世代は今も、李承晩より金日成が立派だと教育されているのが実情だ。実際に、「馬山事件」を4・19蜂起へと発展させたのは自分だと自白した対南工作員(李錫、1972年1月に検挙)がいる。李承晩が権威的体制を構築したのは事実だが、12年間に満たない執権は、当時の歴史的状況と周辺国および敵対していた国々指導者たち金日成(194894年)、毛沢東(194976年)、蒋介石(192875年)などと比較すると短い政権で、執権期間で独裁と評価し、象徴されるのは適切でない。
特に、3・15選挙の広範な不正選挙への指摘は、李承晩の選挙ではなく、李起鵬当選に関するものだ。不正選挙を放置した責任はあるが、国民の要求に応じて辞任した。独裁者たちは過酷な暴力で抵抗を無慈悲に鎮圧する。李承晩は暴力を使用しなかった。特に、政敵や競争相手を除去したことについては、曺奉岩への死刑宣告を取り上げるが、曺奉岩の件は共産独裁体制という全体主義と極端に対峙していた状況での事件で、自由民主的競争者だった申翼熙や趙炳玉とは次元が違う事案だった。
李承晩時代に国民の生命と自由と財産権の剥奪はなく、結局、李承晩を独裁者と規定するのは、長期政権に関連する憲法改正や道徳的評価に関連するものか、選挙不正という民主主義運用レベルの未成熟による評価だ。
特に、他の社会経済的な水準と比較すれば、李承晩時代の民主主義がどれほど飛躍的なレベルだったのかが分かる。李承晩時代には自由を求める要求がなく、身分制の廃止要求もなく、議会民主主義への要求や投票権の要求、女性への投票権要求もなかった。政党の結成は自由で、宗教の自由と居住移転や表現の自由が制限されたこともない。民主主義先進国でも数百年かかった権利だ。(つづく)