東大阪市立長栄夜間中学校の今(上)

日付: 2018年02月15日 00時00分

 1945年太平洋戦争終結後の混乱期に、義務教育である中学校に通うことができない子どもが日本で続出した。家計を助けるために働かざるを得なかったからだ。そこで、昼間の労働を黙認し、夜間に学ぶための夜間中学校が自然発生的に開設された。1955年当時、全国に89校の夜間中学ができ、5208人が学んでいた。
社会が落ち着いてきた1966年、政府は夜間中学の廃止を検討した。行政管理庁より文部省(当時)に対して勧告された勧告文は次のようなものだった。
「家庭の貧困などにより、昼間就労して夜間通学する、いわゆる”夜間中学生”は学校教育法で認められていない。また、義務教育の本分からこれを認めることは適当でない。これらの学校に通学している生徒に対し、福祉事務所などの関係機関との連携を密にし、保護措置を適切に行い、なるべく早くこれを廃止するよう指導すること」
この「夜間中学早期廃止勧告」を、夜間中学に対する死刑宣告だと捉えた高野雅夫たちは、生徒・卒業生・教師たちとともに証言映画『夜間中学生』(16ミリ記録映画、上映時間48分。制作費38万6000円)を制作。廃止反対運動を立ち上げ、全国を行脚しながら「義務教育を終えていない人が一人でもいるのなら、夜間中学を廃止してはならない。夜間中学を増やそう」と訴えた。
高野雅夫たちの全国行脚は北海道でスタートし、1年後に大阪に到着した。教育委員会を訪れ、「大阪に夜間中学を!」と訴えたが、その訴えに耳を傾ける者はいなかった。教育委員会の回答は「大阪に義務教育を終えていない人はいない。だから、夜間中学はいらない」というものだった。
回答に疑念を抱いた高野雅夫たちは、証言映画『夜間中学生』を上映し、大阪での夜間中学増設を訴えるビラ300万枚を配布した。
案の定、義務教育を終えていないという8人の生き証人が現れた。教育委員会の言い分は根底から崩れた。1969年、天王寺中学校に夜間学級が開設され、89人が入学した。
開設と同時に、「夜間中学を育てる会」が発足した。夜間中学の卒業生や教員、市民らが参加し、夜間中学生の募集活動を行ったほか、学習環境や条件の改善などを要望する市民運動を展開した。1970年に作成された設立趣意書は次のようなものだった。
「憲法第26条に『教育はすべての国民が、能力に応じてひとしく受ける権利』と明記されています。そしてその就学率は世界一といわれています。しかしながら、貧困や差別・病気・戦争などの理由で阻害され、義務教育を修了しなかった人々が全国で142万人、大阪では約5万人いるといわれています。(中略)
現在、二百数十名の夜間中学生がいますが、義務教育未修了者の大半は放置され、しかも毎年数百人の長期欠席生が学齢を過ぎるとほとんど事務的に除籍されています。この実態を踏まえ、私たちは夜間中学の卒業生・生徒・教師は最も身近な関係者として、当面、夜間中学をより充実させ、かつ義務教育末修了者を完全になくす運動の必要性を強く感じています。(略)」
大阪で初めてできた夜間中学校は、勝山中学校(生野区)だ。その後、各地に広がったが、閉鎖された夜間学級もある。東大阪市立長栄中学校に夜間学級が開設されたのは1972年だ。開設当時は、3学級編成で66人の日本人が在籍していた。翌年は48人が入学。5学級編成で在籍数105人のうち、48人が在日韓国朝鮮人だった。
(つづく)


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