大韓民国の建国史(97) 戦争と混乱の時代に出現した企業家たち 

日付: 2018年01月24日 00時00分

洪熒・本紙論説主幹

 近代化した韓国にも解放と建国、戦争と復旧過程で企業人たちが登場した。企業は教育が前提となる。戦争中の避難地だった釜山では軍用テントを利用して臨時室を作られて授業が続いた。食べて生き残るためには、就職をするためには勉強しなければならなかった。この驚異的な教育熱のため、韓国は李承晩大統領が退任する頃は、大学進学率が英国より高くなった。
学校の給食は、トウモロコシ、粉乳など米国の援助物資だった。余剰農産物無償援助協定(PL480)によって米国から導入された農産物だった。1956年から64年まで416万8000トンが導入された。この余剰農産物の導入によって韓国は飢饉を免れ、穀物を輸入するための莫大な外貨を支払わず済んだ。
李承晩大統領は、現在よりも未来の国家の幸福が重要であると力説した。産業技術の土台を作るため蔚山に工業団地を建設する問題を繰り返し検討した。
この戦争の廃墟から起業家たちが出現した。1950年代の韓国経済を引っ張ったこれらの起業家たちは、利潤の創出ほど、愛国愛族と産業報国という国家観を持っていた。休戦後、釜山で第一製糖を創業した、サムスングループの創業者の李秉喆氏は、こういう言葉を残した。
「実際の精神を土台にした欧米諸国は今日、彼らの燦然たる物質文明が実を結び、世界の強国として、宇宙の支配者として君臨している。反面、工商より文を重んじた私たちの伝統的因習は、未だ栄利という言葉を善のこととして認識していない、潜在的な観念に流れている。現今の世界が表面的には理念だの、名分だのと言い、もっともらしい修辞を打ち出しているが、世界中は実際に経済戦が戦われているのだ。
ビジネスが働く舞台を拡大し、生産と流動を増進させることで、国民の福祉と国の富をもたらし、国際間の熾烈な商品の浸透の戦いでビジネスマンは戦士の存在として認識される。西洋ではよく、大企業の成功者がそのまま現実を制覇した者、ないしは現実の芸術の精華家として脚光を浴びる。
私たちも、最も早いうちに貧困のくびきを脱するためには、ビジネスに対する認識とその価値を新たに認識せねばならず、国民や政府も温かい企業風土を造成するため、もっと強力を要請したい」
皆が貧しかったが希望を捨てなかった。戦争の傷痕を洗いながら安定し始めた。1957年5月、史上初めてのミス・コリア選抜大会が開かれた。
解放後の登場したこの企業人たちの成長環境を見てみよう。韓国で建設業と言えば思い出される人が鄭周永だ。彼は1915年、江原道通川郡で生まれた。弟がたくさんいた鄭周永は、6歳の時、近所の寺子屋で千字文と唐詩、古文眞寶、史略、小學、孟子、論語を学んだ。ふくらはぎを叩かれながら学んだ三綱五倫が企業を起こすとき大いに役に立ったという。15歳の時、小学校を卒業して、家の農作業を手伝い、16歳から3度も家出を敢行した。
家を出て仕事を得たのは、ソウルのサムチャン精米所だった。米の配達が彼の仕事だった。精米所での経験と信用を積んだ鄭周永は米穀商を始めた。米の商売が軌道に乗る頃、朝鮮総督府が米穀統制政策を施行して店を閉めた。解放後、米軍政庁から帰属財産の払い下げとしてソウル市中区で200坪の土地を買った。現代自動車工業社という看板を出して自動車修理工場を始めた。自動車工業社を経営しながら建設会社の看板も出した。努力は同じなのに、業種が違うだけでもっと儲かるからだったという。(つづく)


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