大韓民国の建国史(96) 戦後復興のため、閣議で休日の返上まで決議 

日付: 2018年01月17日 00時00分

 戦争の惨禍は言葉にできなかった。李承晩政府で商工部の電気局長、鉱務局長、工業局長を務めた申鉉碻元総理は当時をこう振り返る。
「私が休戦直後の電気局長だったとき、寧越発電所と華川発電所が電力設備のすべてでした。この発電所も、戦争中に破壊されたため、数年間は、米国から発電船を一隻導入して馬山の沖で発電した2万キロワットが韓国の電力のすべてでした。私が電気局長のとき、唐人里と三陟、そして馬山に発電所を建設し、全国を回って『水力発電所建設10年計画』を立てました。韓半島にあったセメント工場13カ所のうち、唯一、南韓にあった三陟セメントが戦争中に破壊され、わずか2万トンを生産しました。李承晩大統領は、経済の慧眼がある方でした。建国2年後、戦争で荒廃となりましたが、1954年ソウルへ戻り、1958年には戦争前の状態に完全に復旧したと発表しました。夜も寝ず汗を流して努力した結果です。昼夜を問わず仕事をしなかったら、4年間で復旧は不可能だったでしょう。その頃は、休日を返上すると閣議で決議し、日曜日や祝日も全廃し仕事をしました」
誰も貧しかったが、教育熱はすごかった。学生の数が急増してほとんどの小学校は23部制で授業をした。一つのクラスが100人を超える場合もあった。テレビ放送が始まったとき、全国の受像機は100台くらいだったという。米国と余剰農産物協定(PL480)が締結されて1958年から米、大麦、小麦、トウモロコシ、大豆、綿花、牛脂などが供給され始めた。米国が提供した余剰農産物を加工する、綿紡織、製粉、製糖工業が韓国の主力産業となった。発電所の建設が緊急の課題だった。電力が供給され、肥料工場も建てられた。
昨年の末、板門店を通じて銃撃を受けながら帰順した北韓軍から手術の過程で大量の寄生虫が発見されたが、1960年代までは韓国人たちも80%が回虫を持っていた。寄生虫より恐ろしいのが結核だった。1954年、ソウル大学医学部の報告っでは、全国民の6・5%である130万人程度が結核患者とされた。
李承晩政府で復興部長官を務めながら、戦後の復興事業を担当した宋仁相(暁星グループ顧問)は、生前に「4・19」と「5・16革命」の後の混乱期に李承晩政府の起案文書と公文書が破棄、消失したため、韓国の財政史が書けないと言い、次のように証言した。
「1950年代の韓国は総輸出は年間3500万ドル程度、国民所得が1人当たり50~60ドルでした。植民地時代の奇形的構造だった韓国経済を、今日のような先進的構造に変える基礎を作った時期が1950年代でした。長期経済開発計画を樹立し、そのための人材育成、インフラおよび社会間接資本基盤を構築し始めました」
李承晩政府にも軍出身者が何人か登用され、炭鉱や産業現場に軍が投入されて、国家建設の先頭に立った。戦争で産業基盤が完全破壊されたため、李承晩政府は米国が提供する援助資金が国家予算の半分だった。それでも電気、石炭、ガラス、セメント、紡績、鉄道路線の新設など、様々な産業の基礎を作った。李承晩大統領は、韓国国民が生きるか死ぬかの絶体絶命の危機だったあの6・25戦争中から、すでに原子力に関心を傾けた。特に外貨が不足していた時代に、米・英に200人の留学生を派遣し、1人当たりのGNPが70ドルだった時、70万ドルの研究用原子炉を導入した。(つづく)


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