【新連載】韓昌祐経営論 マルハンの企業倫理(1)

貧しかった幼少期、16歳で玄界灘を渡り日本へ
日付: 2017年11月15日 00時00分

 韓昌祐(1930年12月17日生まれ)。日本第一のパチンコチェーン店マルハンの創業者である同氏は、在日同胞社会では広く知られた人物だ。だが、彼が企業を育てていく過程と喜怒哀楽の人生の歩み、企業家としての経営哲学(理念)は意外に知られていない。韓昌祐ストーリーは身内だけが知っていると言われるほどだ。渡日70年の在日韓国人1世。現在も、ビジネスの世界では「信用、努力、奉仕」の姿勢で懸命に働く老将のストーリーを紹介する。

 「日本では私を韓(はん)さんと呼びます。だから韓商(はんさん)がまさに私の名前です」
韓昌祐の講演は聴衆の笑いで始まった。冗談は硬い雰囲気を変えるのに最適だ。今年10月25日、慶尚南道・昌原の世界韓商大会リーディングCEOフォーラムでの講演は、韓昌祐経営論を理解するのに十分なものだった。
同氏は、慶尚南道馬山の西南側にある小さな漁村の三千浦で生まれた。戸籍上の誕生日(1931年2月15日)と実際の誕生日が異なる理由は、両親が早く死ぬかもしれないと、わざと遅らせて届け出たためだ。韓国では新生児が100日を生きると、親戚などの知人を呼んで「100日お祝い」をする。その理由は、「生き残ったことを祝うため」だ。
「家がすごく貧しかったのです。今も時々思い出しますが、夕食はいつももやし粥でした。米を少し入れて量を増やし、満腹感を早く感じるように。定番でしたね」
ところが、母は食べない日が多かった。「お腹が痛くて食べられないから、あなたが私の代わりに食べて」。当時はその言葉を素直に信じてよく食べた。しかし、今考えてみると、母親は腹が痛いわけではなく、幼い子に少しでも腹いっぱい食べさせたかった親心ではなかったか。
そのことを思い出すと、理解はしながらも涙を抑えられない。
5人兄妹の真ん中、3番目の韓昌祐は16歳のときに故郷である三千浦を離れる。手荷物は、母親がくれたコメ2升と英語辞書1冊のみだった。
「大きさが10メートルほどの小さな船に、私より10歳ほど上の青年2人と一緒に乗りました。玄界灘を丸一日半の航海をしたら下関でした。私の日本での人生は、すなわち今日で(2017年10月25日)、70年と3日目です」
渡日の持ち物に辞書が含まれていることが物語るように、同氏の向学心は強かった。昼耕夜誦しながら高校検定試験を経て、大学に進学した。
趣味は、クラシック音楽鑑賞とファッションデザイン関係。クラシックLPを買うために飢えても、さらに栄養失調で肺結核にかかり入院した病床のベッドでも、日中はイヤホンでクラシックを聴いた。ファッションにも関心が高く、後日帰国したら韓国の女性たちにファッションアドバイスをしたいと考えていたほどだ。
瞬く間に大学卒業の日を迎えた。日本人も就職が難しかった時代、外国人の同氏に就職口はなかった。
無理やり、ファッションの勉強のためにフランスへの留学を決心した。問題は渡航費だった。京都から3時間ほど離れた人口1万5000人ほどの田舎の峰山。そこに住んでいる義兄に金を借りに行った。義兄の叱責は厳しかった。
「そんなファッションか何か分からんが、ここで働け。働いて金をためてからどこへでも行け」
仕方なく、そこに留まった。青年・韓昌祐は機械20台を置いた小型パチンコ店で義兄の仕事を手伝いながら、ビジネスの世界に足を踏み入れた。
「いつか必ず自分の力で商売を成功させる」


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