日本人と韓国人―私の道のりと生き方―(5) 両国の指導者関係

国家先進化へ日本の協力は不可欠
日付: 2017年11月08日 00時00分

尹仁鉉

 長年の宿願であった65年度の韓日両国の和解条約は、いわゆる5・16革命という目的達成のための、絶対条件であった。革命達成のためには国家先進化が必要であり、それに必要な資金を調達するという目的が、韓国側にはあった。
この結果、経済面では産業化の基礎を構築し、国防面では精神構造の涵養が達成された。両者が相当な水準に達したのは事実であった。
一方、国内の至る所で蔓延していた不正問題は、むしろ拡大していた。特に、指導的立場にあった者たちの不正蓄財は、国民の目から逃れられないほど、度を超していた。
朴正熙大統領は、人事を含めて不正を正す革命を考えていた。しかし、隣国の憂慮と投資国家の反対、特にアメリカの反対は、常識を超えるものであったと考えられる。
憂慮していたのは、李厚洛秘書室長をはじめとする国家要人たちの海外逃避であった。それに加えて、国内外の世論は朴政権に否定的だった。朴大統領が終身大統領になることを目論んでいるとの見方さえあった。
朴大統領は当時、5・16軍事革命の清算を真剣に考えていた。5・16が失敗したことを認める声明を出し、金鍾泌が臨時短期政権を引き受けて5・16政権を維持し、速やかに選挙を通じて民政を実施する予定であった。
この計画を進めるため、内務長官で、駐日大使だった厳敏永が、主導的に計画を進めた。その計画の一端として、京畿道知事だった朴泰元を慶北協会の事務総長に任命し、嶺南大学を設立する計画を進めた。朴大統領は、その初代総長に赴任する計画であった。しかし事態は、厳大使の急逝で歯車が狂い始めた。
韓日両国の関係は、36年におよぶ植民地支配という時代もあったが、最近では関係が深まり、特に指導者たちの関係は一層深くなった。だが、国交正常化以降も、両国の関係を揺るがす事件がなかったわけではない。特に朴正熙大統領の在任時は、危機的状況の連続だった。
文世光事件は突発的な事件のようであるが、十分に防げたものであったと思う。
犯行に及んだ文世光の偽の旅券は、ビザ発行の段階で防ぐことができたが、当時の大阪韓国総領事館の担当領事は、専門教育を受けた外交官ではなく、本部で事務を担当していた。大阪は、彼が最初に赴任した海外勤務地で、日本の事情にも疎かった。特に、北韓の前戦基地だった朝総連の危険性を認識していなかった。
74年8月15日の事件現場は、光復節記念式場であった。そのため、政界は与野党を越え、国民も保守も進歩も全てが、国をあげて日本との国交断絶まで叫び出した。
当時の韓国はまだ先進化の途上にあり、日本の協力は絶対的に必要であった。韓国はさまざまな外交ルートを通じて、日本との関係を維持しようとしたが、糸口はなかった。
朴政権は全ての外交慣例を捨て、当時の田中角栄首相に私信を送る計画を立てた。公式ルート以外に方法は見出せなかったが、どうにか田中の私邸で私信を直接手渡すことに成功する。渡したのは、当時の対日関係を専門としていた第2無任所長官特別補佐官の崔という人物だ。彼は現在も存命中で、某大学の総長を務めている。
(つづく)


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