日本人と韓国人―私の道のりと生き方―(2)当時の朝鮮は狼の前の生肉

1次的な責任は力がなかった自分たちに
日付: 2017年10月12日 00時00分

尹仁鉉

 一公務員として生きてきた私の道のりとこれからの生き方、今の状態を伝え、私のことを理解してもらえればと思う。
私は1932年に生まれ、小学校に入る前から、日本の小説を読んでいた。中学1年の時に、韓国は日本の統治から独立した。それまで受けた教育は、歴史も一般教養も、日本のものである。
私は個人的事情で、17歳で韓国軍に入隊した。入隊した当時の韓国陸軍憲兵学校の雰囲気は、区隊長(中尉)も全ての教官も、事務関係の将校は、日本軍の学徒兵出身であった。
マニュアル(教範)はアメリカ軍のものであった。軍政の源は国防警備法で、アメリカ法を翻訳したものである。
軍の階級でいうと大尉までを憲兵隊で、少佐からは情報機関で務めた。その範疇は日本との関係のことであり、当時日本に関する事項で上に報告するものの大半は、私が起草した内容であった。
私が最初に日本の土を踏んだのは1962年1月2日、場所は立川のアメリカ軍基地であった。50年以上前の2週間の東京滞在で、見物場所として選んだのは、皇居前広場であった。そこはまるで、天国のように思えた。
同族が血で血を洗う壮烈な戦争があり、全国の都市は破壊され、町中異様なにおいが漂っていた。そういう環境の中で青少年期を過ごした一介の旅人が、皇居前広場と、そこにいる洗練された人々の姿に驚かされたのは不思議ではあるまい。
第2次大戦で敗れ、破壊され、食べ物を求めさまよう人たちであふれていた東京が、いつの間に変わったのか。瞬間、ソウルの街を思い浮かべた。
独立を喜んで万歳を叫んでいた人たちが、気づけば左右に分かれ、殺し合いをしている。その原因を自分たちの都合にあわせ、他人のせいにする。今も昔も変わっていない。
明治の大業を成し遂げ、敗戦で廃墟と化した日本を今の姿に変えたのは、日本人の品格と能力によるものであると私は思った。このような日本人をまとめたのは、日本の繁栄と日本人の幸せを願う天皇であったと思う。天皇は、常に国の安定を願い、宮中行事などを通じて祈っている。天皇と国は一体であった。これが日本の原動力であった。明治維新の際も、状況は同じであった。
その隣国の韓国(朝鮮)はどうだったか。王家である李朝は、高宗、閔妃、大院君の3派に分かれて、勢力争奪、それも自国民の力ではなく、他国の力を頼りにする奪い合いを展開していた。
強い国が弱い国を奪い合う植民地政策が、国際的常識であった時代である。指導者も周りの勢いに頼った。国の自立という名目もあったが、個人の欲が見え隠れする。
当時の朝鮮は、オオカミの前の生肉の状態であった。自然の成り行きで、日本の植民地になった。
今韓国は、朝鮮が日本の植民地になり果てたのは、日本のせいであると主張している。しかし、あえて言うならば、1次的な責任は自分たちにある。力がなかった責任である。
日本人は隣国を、それも長い付き合いのあった国を、なぜ植民地にしたのか。日本の責任は、間接的責任であったと考える。なぜか? 植民地化の過程で、両国には話し合う機会があった。その機会を逸した理由の多くは、我が国の側にあったと思う。私は今の主張を変え、1次的な責任を認めて日本と話し合えば、両国の懸案を解決するのはそう難しくはないと考えている。(つづく)


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