大韓民国の建国史(85) 戦争中の民主政治、李承晩大統領と国会の衝突

日付: 2017年10月03日 22時14分

洪熒 本紙論説主幹

 戦争中も政治は回り続けた。李承晩は戦争を理由に選挙を中断しなかった。第1代市・邑・面議会選挙が1952年4月25日に実施された。翌月の5月10日、第1代道議会選挙も行われた。初代大統領の任期は52年7月23日までだった。第2代大統領選挙は52年8月5日に行われた。その経過を見てみよう。


既述のとおり、休戦協商が始まってから、李承晩と米国の葛藤は内燃し始めた。米国政府は、韓国戦争が世界大戦へ拡大されるのを防ぐため、休戦で韓国戦争を早く「縫合」しようとした。ソ連のヨーロッパ侵攻を恐れる英国など、米国の同盟国も一日も早く韓国から手を引こうとした。「休戦は韓国に対する死刑執行令状」と抵抗し、北進統一を叫ぶ李承晩と米国の葛藤は避けられなかった。


米国で秘密解除された文書によれば、米国務省と駐韓米国大使館は51年の後半から、李承晩に代わる人物として、張勉、張澤相、金性洙、趙炳玉などを候補として見ていた。米国は52年の大統領選挙の際、北進統一に固執する李承晩を敗北させ、米国に従順な人士を当選させれば、休戦協定が順調に実現すると判断した。駐韓米国大使のムーチョは52年2月15日、次期大統領として張勉が最善と報告した。


「他の候補の李範奭と申翼熙は、われわれの観察では格がやや落ちる。最良の候補は張勉と許政だが、彼らは追従者が少なく弱い。内閣制を導入して李承晩を再選させる方法もある。他に強力な候補者がいない状態で、李承晩の影響を制限する一つの方法だ。だが、李承晩はそれを望まないはずで、私が見るには、フライパンから出て火に飛び込むような恰好だ。なぜなら、韓国人は内閣制を運営する能力が全くないからだ。国会で大統領を選び、張勉が当選するのがわれわれの最善の希望だ」


李承晩の政治顧問だったロバート・オリバーは、李承晩が建国直後から、大統領選出権を国会から国民に移譲させる憲法改正を考えていたと記録している。李承晩は50年3月24日、「52年の大統領選挙では、国民が選挙権を持つように憲法が改正されるべきだ」と言った。


李承晩は51年から、政治的反対派のため、国会内での立場が不安定だった。このまま国会で大統領を選出すれば、敗北はほぼ確実だった。李承晩は、自分を支持する政党の必要性を真剣に検討し始めた。李承晩は51年の光復節祝辞で「農民と労働者を基盤として、一般国民が国の福利と彼らの共同福利を保護するため、政党を作る時が来た」と宣言した。


政党結成は院内と院外で別途に推進された。内外ともに自由党という党名で、独自の結党準備を進めた。李承晩政権は51年11月30日、憲法改正案を国会に提出。大統領直接選挙と二院制を骨子としたものだった。52年1月28日の採決の結果、在席議員163人のうち賛成19、反対143、棄権1票で圧倒的に否決された。


衝撃を受けた李承晩は「国民投票を召喚する」との声明を発表した。この声明後、18の社会団体が改憲案否決反対民衆大会を開き、国会議員召喚運動を行った。一方、院内の自由党と野党連合勢力は52年4月17日、内閣責任制改憲案を国会に提出し、張勉総理は李承晩に辞表を提出した。


李承晩と院外自由党は5月14日、政府の改憲案を若干修正した改憲案を再び国会に提出。院内の反李承晩勢力は5月29日、国会で大統領選挙を電撃実施し、張勉を選出する計画を立てた。(つづく)


閉じる