大韓民国の建国史(83) 休戦会談を利用して戦線を要塞化した共産側

日付: 2017年09月22日 01時37分

洪熒 本紙論説主幹

 韓半島周辺の海に設定される領海問題について、共産軍側は領海を12海里以内にするよう主張した。しかし、国連軍側は韓国代表が要求した3海里を主張し、貫徹させた。これで制海権を掌握した国連軍側は、もともと確保していた西海の島々のうち、38度線以南の白〓島、大延坪島など「西海5島」を韓国側に帰属させた。
軍事境界線問題で協商が膠着状態だった約5カ月間の間に、共産軍側は新たに策定予定の休戦線の北側に、難攻不落の防御陣地を構築した。中国軍事科学院の資料を研究した韓国の軍事専門家たちによれば、北韓軍と中共軍は1952年の末までに、韓半島を横切る250キロの戦線に地下陣地を拠点とする要塞を構築したという。
総延長287キロの陣地に9519本の通路と、総延長3683キロで結ばれた78万4600個の塹壕が作られた。爆撃からの退避所と指揮所、観測所、トーチカは、10万1500個に達した。今も休戦線の北側にある金化と五聖山一帯には、有事の際、6万の兵が入る地下施設があるという。西から東海岸まで幅20~30キロの巨大な”蟻の巣”ができたのだ。
議題第5項、双方の関係国政府への建議事項は、1952年2月17日に妥結された。この問題は、双方が1回ずつ修正案を出して討議し、11日間で合意した。共産軍側の修正案は、「双方の軍司令官は、韓国問題の平和的解決を保障するため、休戦協定が調印され効力が発生した3カ月以内に、高位政治会談交渉を通じて韓半島からすべての外国軍隊が撤退し、韓国問題の平和的解決等のため、政治会談を開催することを双方の関係国政府へ建議する」というものだった。
国連軍側は共産側の提案についての部分的な用語の解釈を添付して受諾した。つまり国連軍側は、「外国軍隊」とは国軍以外の軍隊を意味し、「等」とは韓国問題以外は関係ないという条件をつけて承諾した。この5項は、休戦協定第4条第60項で明文化された。
議題3項、つまり国連と共産軍の代表をもって構成され、休戦を管理する軍事停戦委員会のほか、休戦監視機構の構成案が1952年5月2日、合意された。国連軍側は当初、スイス、スウェーデン、ノルウェーの3国を、共産軍側はポーランド、チェコスロバキア、ソ連の3国を提案したが、国連軍側の強力な反対で、ソ連の参加は見送られた。国連軍側も、ノルウェーを撤回。チェコスロバキア、ポーランド、スイス、スウェーデンの4カ国で中立国監視委員会を構成することに、双方が合意した。これで交渉の議題は、第4項の捕虜交換問題を残すのみとなった。
休戦会談が長引いたのは、この捕虜送還問題のためだった。国連軍の捕虜になった北韓軍と中共軍の相当数が、帰還を望まず自由世界に残ろうとした。ジュネーブ捕虜条約は、本人の意思と関係なく、無条件送還を規定している。第2次世界大戦でドイツ軍の捕虜となったソ連軍兵士の多くが、ドイツに残ろうとしたが、米国は彼らを無条件送還した。彼らは本国に着いて、直ちに処刑か収容所に送られた。
ポール・ニッツなど米国務省幹部は、この前轍を繰り返してはならないと考えたが、国防省は無条件送還を主張した。両省が会議を重ねても結論は出なかった。ディーン・アチソン国務長官は、トルーマン大統領の決裁を受けようと言った。トルーマンは「自由意志確認後送還原則」を決断した。トルーマンの回顧録第2巻『試練と希望(1946‐1952)』には感動的な部分がある。(つづく)


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