脱北帰国者が語る 北の喜怒哀楽―旧ソ連に密入国(14)

多民族都市サハリンで、ついに麝香を入手
日付: 2017年09月06日 20時01分

 バイカル湖を出て2日後、コムソモリスク・ナ・アムーレ駅で乗り換えて、サハリンに行くため、ソヴィエツカヤ・ガヴァニの港に向かった。中国とソ連の国境を流れるアムール川の上流を鉄橋で渡った。川というより海のような大きな川であった。
ソヴィエツカヤ・ガヴァニの港から2000トン級の客貨物船でサハリンのトマリ港まで約2時間、そこで下船してバスでユジノサハリンスクに着いた。建物は6階から10階ほどの高さしかなく、都市といってものどかな雰囲気だった。サハリンに行った目的は、漢方薬として使われる高価な麝香を取りに行くことだった。アレクセイが、母に私を紹介してくれた。色白で豊満な身体は、私の2倍はあるように見えた。
私は簡単にロシア語であいさつした。アレクセイの母は「ロシア語がお上手ですね」と返してきたので、私は手を振りながら「そうでもありません」と謙遜した。このやり取りを見ていた英範は「継母にあまりロシア語でペラペラ話さないで。挨拶程度の言葉しか話せないと言ってあるので」と制止した。
確か英範が9歳の頃、父はアレクセイの母を迎えたと聞いている。24歳の若い娘で、金一家に嫁いで男女一人ずつを授かり、育ててきたという。アレクセイの母は、すでに50代になっているように見えた。
アレクセイの妹はキエフに嫁いでおり、幸せに暮らしているという。その写真を見せてもらった。夫と3人の子どもとともに写った写真には、母親と瓜二つの、長身の美女が微笑んでいた。
アレクセイの母は昔、英範の父から朝鮮語を少し習っていたという。今は少ししか話せないといいながらも、食事をしてください、おいしくない、早く行こうといったフレーズを朝鮮語で話してみせた。息子と英範との会話は、全部ロシア語だった。
私はその家で3日間お世話になった。食卓にはブタ肉料理のほか、サケ、イワシ、ニシン、カニなどが上がった。大半が塩漬けにされたものだった。
私が「とてもおいしい」と言って親指を前に出すと、向こうは「どうもありがとう」と喜んでくれた。
その3日間で感じたのは、ソ連の人は客に対しても、無理にお世辞を言ったり過度に称賛したりせず、正直でストレートな言い方をするということだ。初対面のあいさつの時は、やや無愛想で無表情に感じたが、付き合ってみると情の深い人たちだった。
2日目に、近所を散策した。ユジノサハリンスクと近隣のコルサコフの間にあった、かつての炭鉱跡も見えた。当時、日本が石炭を必要として開発・運営していたが、その後、ソ連は豊富な石油を主要なエネルギーとして利用したため、石炭は無用となったのだ。
各所に温泉もあり、入浴してみた。
サハリンは多民族で構成されていた。ロシア人、モンゴル人、タタール人、日本人や朝鮮人、そしてその混血民族もいた。朝鮮人、中国人、日本人系は、かつて強制移住させられ、炭鉱などで働いていた人の子孫だった。街中には、日系や中国系のロシア人が営んでいるうどん屋、おでん屋、水餃子店などの看板が、ロシア語と自国語でかかっていた。共用語はもちろんロシア語だった。3世、4世にとっては、彼らの祖父母の言葉は外国語だった。
サハリンを出発する前夜、英範は7個の麝香を見せてくれた。アルミニウム製のマッチ箱の型に整えられた、手製のものだった。箱の四方は全部ハンダ付けしてあった。麝香の独特な香りは、いくらビニールなどで包装しても外部に漏れるので、薄いアルミニウム板をハサミで裁断し、パラフィン紙で包装してアルミ箱に入れ、ハンダ付けするのだという。それでも香りは漏れるので、ソ連の税関を通過できないと考えた英範は、私を呼んだのだった。
いくらアルミ製の箱に入れられていても、1年後には香りが外に出てしまうらしい。鼻の前に持って来て嗅いでみると、わずかに独特の香りがした。(つづく)


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