洪熒 本紙論説主幹
戦争は、奇襲南侵から1年を過ぎていた。首都ソウルの主人は4回替わり、戦線は南北に2300キロほど行ったり来たりした。その後、当初の境界線だった38度線を中心に、南北50キロの範囲での戦いとなった。
当初は勝利が目標だった戦争は、毛沢東が米軍に勝てないことを悟り、米国も第3次世界大戦をしない限り、中国軍を敗退させられないという現実を認めた。国連軍が中共軍を鴨緑江と豆満江の向こうへ追い払っても、共産軍はいつでも韓半島に再び侵入できたからだ。ソ連も金日成が勝てない事実を知っていた。
米政府の停戦提案の動きに呼応して、共産側も積極的な態度を見せた。直接の契機は、中共軍の6次までの攻勢が、甚大な被害を出して失敗したからだ。ソ連、中共、北韓は、ついに自分たちの力の限界を感じ、協商に応じることに合意した。
毛沢東は全面勝利を諦めることをためらう金日成に、新戦略を採択するよう説得した。6月13日、金日成と毛沢東の特使である共産党東北局書記の高崗が参加したソ連、中共、北韓の3国会議で、38度線を境界線とする休戦を推進すると合意。ソ連は戦争の平和的解決を望むという宣伝を続けた。
マリクの国連本部での演説「平和の代価」(6月23日)に呼応して、中国の人民日報は同25日1面に記事と社説を載せ、ソ連共産党機関紙プラウダも26日付で、マリクの演説全文を掲載した。
グロミコ外務次官は、真意を打診した駐ソ米国大使のカークに、マリクの演説がソ連政府の意向であることを確認し、停戦対話には、国連軍側から米軍およびその他の国連軍代表と南韓軍代表、共産軍側からは北韓軍と中共軍の代表が出席すべきだと付言した。
リッジウェイ将軍は、マッカーサーの前轍を踏まないようにワシントンの指示に従った。ワシントンは初めて現地司令官ではなく、自らが韓国戦争を指揮できるようになった。この過程を経て、米国は6月26日、李承晩に米国が休戦を追求している事実を伝えた。李承晩は6月30日、停戦協商反対声明を発表した。
停戦協定のための双方の接触が7月8日に始まり、同10日、開城での本会談開催に合意した。 共産側の南一代表は、全外国軍の撤退、38度線を軍事境界線とする南北10キロの非武装地帯の設置、捕虜交換を提案した。7月11日、休戦会談運営に関する協定が成立した。韓国各地で停戦反対デモが広く起こった。
国連軍は6月23日、水豊ダムを初めて爆撃するなど、北韓の後方地域と東西海岸の主要軍事施設を集中攻撃した。
休戦会談期間の軍事作戦は、休戦会談の推移と密接に関連して推移した。会談が順調なときは戦線は小康状態を維持し、会談が決裂または遅延するときは、戦闘が激化した。
休戦会談の焦点は、軍事境界線の設定と捕虜交換問題だった。国連軍側は双方の接触線を軍事分界線にすることを主張し、共産軍側は38度線を主張して会談は進まなかった。
戦争は、休戦に有利な状況を確保する高地争奪戦になった。韓半島内の小さな世界大戦は、蒋介石の台湾を救い、西ドイツを再武装させた。戦闘は平均10キロの狭い地域内で行われ、双方が多くの死傷者を出した。この壮烈な戦いが続く中、政治的・戦略的に停戦を望む米英などは、休戦に反対する李承晩を負担と思うようになった。(つづく)