【朴正煕】独裁の打倒が民主主義ではない―中―

6737日の革命
日付: 2017年08月15日 00時00分

「5.16」をどう見るのか

 1987年の改憲で、第6共和国に聴聞会制度ができた。人民裁判のような聴聞会に呼ばれた長官候補者たちは必ず「5・16」の性格に対して質問される。朴正熙を否定して得るものは何か。奇跡を可能にした精神を否定するよう強いる理由を反問したい。
朴正熙の半生は『6737日(1961年5月16日から1979年10月26日)の革命』とも表現される。朴正熙が国民と国家に貢献したのは、「国とは何か」を正確に教えたことだ。彼は「大統領がなすべき仕事は国を守ること」であることを模範的に示した。
1950年代の末、大韓民国は本当に貧しい農業国だった。朴正熙が執権した当時、韓国の1人当たりのGNPは70~80ドルで、国連加盟国125カ国中、105位程度だった。北韓は当時、1人当たりのGDPが300ドルの中進国だった。
建国大統領の李承晩と朴正熙は、第2次大戦後、植民地から独立したほとんどの新生国が選んだ道を拒否した。新しい国作りには激しい抵抗があるものだが、両者は長年の封建体制を打破する、上からの革命を推進した。李承晩と朴正熙は、自由民主体制と市場経済体制を定着させ、大韓民国の赤化を執拗に追求する共産主義と戦いながらのことだった。
当然、権威主義的で独裁だと批判される。多くの人が「独裁の打倒が民主主義」と言い、あるいはそう扇動される。だが、これは大間違いだ。
自由民主主義の敵は、共産主義や全体主義独裁だ。共産全体主義が自由民主主義を転覆させるとき駆使する戦術的スローガンが「独裁打倒」だ。ほとんどの独裁打倒が自由民主主義とは無縁の結果をもたらしたのを歴史は示している。
韓国の現代史において李承晩、朴正熙、全斗煥の3人が最も悪い独裁者だと攻撃されたのは、マスコミの所為もあるが、東西冷戦で韓国が社会主義圏から最も憎まれたのも要因だ。共産陣営は特に、人々が情報を得るメディアを自由陣営攻撃に利用した。
朴正熙は農民の息子として生まれ、軍人の道を歩んだ革命家だ。革命を通じて人間と社会を改造するという朴正熙の夢は、国民教育憲章(1968年12月5日)に盛り込まれた。朴正熙は祖国の再建は汗と涙のみで可能なことだと信じ、それを実践した。
自由民主主義と共産主義は両立できない。5・16革命公約の第一は反共、第二は米国および自由友邦との絆だった。朴正熙と革命勢力は、第三世界へ合流するのを拒否した。この決定が大韓民国の運命を決めた。
1948年5月、南韓は電気のない国になった。ソ連が大韓民国建国のための総選挙実施への抗議として、北からの送電を遮断したためだ。韓国で制限送電が解除されるのは、それから20年後、朴正熙が電源開発事業に集中投資してから7年後の1968年だ。酪農産業も朴正熙が起こした。背が低かった朴正熙の夢は、醤油だけを食べてきた韓国人に牛乳を飲ませ、背を高くすることだった。
「漢江の奇跡」を可能にしたのは、皮肉にも戦争だった。6・25戦争は、韓国人に不死鳥の精神を与えた。韓国は日本の植民地時代を経て両班中心の支配階層が崩壊した。そして植民地から解放5年後、ミニ世界大戦を経験する。6・25戦争は世界史で7番目に多くの国民が死んだ戦争だ。

朴正煕時代の安保と同盟外交

 朴正熙は自主国防を達成した。彼が死んだのは、カーター大統領が1979年6月に韓国を訪れた後だった。カーターの要求に応じて国防費をGDPの6%にした。朴正熙は建国30年後の78年、国防費を韓国自前の予算で編成できるよう経済を建設し、李承晩が残した韓米同盟をさらに堅固にした韓米連合司令部を作ってこの世を去った。
朴正熙は、統一を熱望する人が最も恋しく思うリーダーだ。朴正熙なら今の危機を果たしてどう乗り越えるかを考えてみる。朴正熙は生前「私の墓に唾を吐け!」と言った。彼は革命のため、守旧勢力や外部の圧力と戦って死んだ。後の大統領、特に6共和国の大統領たちは、5年間の任期を楽しんだだけだ。
韓国は、朴正熙時代になって初めて冷戦を戦える体制を整えた。中央情報部は、当初は革命を守る装置だったが、朴正熙はすぐ大統領直属のこの組織が冷戦の主役であることに気づき、北韓の対南工作から自由民主体制を守る総力戦の司令塔として用い始めた。韓国に強力な反共政府が出現すると、金日成は66年、労働党中央に対南担当秘書を置く。金日成は、ベトナム戦争が国際戦に拡大するのを見ながら、第2の南侵戦争を準備したが、毛沢東は金日成を引き止め、韓国をベトナム戦争の第2戦場にするよう指示した。
国産地対地ミサイル試射を見守る朴正熙大統領(1978年9月26日)
 金日成が対南事業を軍に統括させるために作った対南事業総局が、朴大統領暗殺のための青瓦台襲撃(68年1月21日)を起こし、その年の冬に東海岸の蔚珍・三陟地域にゲリラ部隊を大挙浸透させ、冬季ゲリラ戦を試みる。
1・21事態が発生するや朴正熙大統領は、金日成の戦略に機敏に対応した。わずか2カ月で郷土予備軍と学徒護国団を作り、北側の非正規戦と南侵に備えた予備戦力を整備した。
朴正熙大統領が休戦12年後にベトナム戦争への派兵を決定したのは、韓国の歴史上最も劇的な出来事だ。ベトナム派兵は、朴正熙が61年11月に、最高会議議長として訪米し、ケネディ大統領との会談で提案した。米軍がベトナムへ兵力を割くため、韓国から出ていくのを阻止する、戦略的な先制対応だった。軍団級部隊を派兵し、独自の作戦を遂行。国軍将校団の尚武精神を目覚めさせた。韓国人の国際社会進出や個人が世界の中で適応する起爆剤となった。眠っていた遊牧民の遺伝子が目覚めた。
韓日国交正常化とベトナム派兵は、朴正熙の近代化への資金動員の2大軸だ。韓日基本条約批准動議案と戦闘部隊のベトナム派兵動議案は、国会で24時間の間隔で通過した。朴正熙は日本からの経済協力資金5億ドル+3億ドルの10倍を、派兵で調達した。
ベトナム派兵で韓国軍は、米軍と11年7カ月を共に戦うことになる。これこそが韓米同盟の基礎だ。朴正熙は、ベトナム参戦に感謝するジョンソン大統領に、科学技術の発展のための教育研究機関の支援を要請した。ジョンソン大統領が喜んで支援したKISTは、大韓民国の今日の科学技術のゆりかごだ。この時が韓米関係の絶頂だった。韓米関係はニクソン・ドクトリンによって駐韓米軍が撤収し緊張する。自主国防のための国産兵器の生産と核兵器の開発も、この頃本格化した。だが、人権外交を主張して大統領に当選したカーターとは、駐韓米軍撤収をめぐって対立が先鋭化した。カーターがソウルを訪問した4カ月後、朴正熙は暗殺される。(下に続く)


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