大韓民国の建国史(79) 韓国戦争を休戦協商へ導く国際情勢と要因

日付: 2017年07月31日 20時37分

洪熒 本紙論説主幹

 李承晩の反対の中、休戦のための公式接触が1951年7月8日、開城で行われた。金日成の戦争挑発を統一の機会にしようとした李承晩にとって、米側の休戦提案は青天の霹靂だった。
6・25戦争の国際戦の性格を理解するには、休戦協商案の経過を冷静に振り返る必要がある。国連軍が中共軍に押されて38度線の南まで後退したとき、ソ連が共産側に有利な休戦提案を米国側に出した。スターリンは50年12月7日、外相のビシンスキーに、全外国軍の撤退と韓国問題の解決を韓国人に任せる休戦案を国連に出すよう指示した。米国が受容できない提案だった。
トルーマンはこの頃、共産軍を敗退させるためには必要なら原子爆弾の使用も検討すると発言(11月30日)した。驚いたアトリー英首相は急遽、ワシントンへ飛んでトルーマンと12月4日から8日まで会談した。両首脳は戦争を戦争前の境界線、つまり38度線をもとに終結させる案に合意した。
アトリーは訪米前にフランス首相のプレバンと協議しており、事実上、西欧諸国を代表していた。アトリーは休戦の対価として、中共に国連議席の付与を求めたが、トルーマンが拒否。アトリーは米国が韓国から手を引き、欧州の防衛に専念するよう要求した。
アトリーがワシントン訪問中の12月5日、共産軍が38度線を越えないよう国連軍と共産軍の双方に勧告するアジア・アフリカの13カ国グループの決議案が国連に提出された。トルーマンとアトリーは同意したが、勝機をつかんだと判断した中国と北韓側はこれを無視。中共側は21日、中国の参加なしに取られた国連のすべての措置は違法と主張し、休戦提案を拒否した。
周恩来は、「境界線としての38度線は国連軍の北韓領土侵犯によって永遠に無効になった」と主張した。周恩来は、全外国軍の韓国撤退、台湾海峡と台湾からの米軍撤退、蒋介石政府の国連追放、日本との平和協定のための4大強国外相会議招集など、休戦問題に関する5項目を提案した。この提案は事前にスターリンに報告され、スターリンは、ソウル占領後に協商を推進するよう指示した。
アジア・アフリカ13カ国グループは、共産側が拒否しても停戦案を模索し続けた。だが、米国は不利な戦況での停戦交渉と、中共側が休戦条件としてあまりにも大きな代価を要求すると、これらの提案を一旦拒否。しかしやむを得ず決議案に同意する。ところが、幸いなことに毛沢東がこの決議案を拒否(1月17日)した。毛沢東の拒否で、米国は苦境を脱し、体面も保てた。西側は2月1日、米国主導で中国を侵略者と規定する決議案を総会で通過させた。
トルーマン政権は1951年の春から、ソ連と直談判することに方針を変えた。米国は、米国の対ソ封鎖政策を立案したジョージ・ケナンの言葉どおり「残酷で傲慢な」中国より、強大国の地位を持つヨーロッパ国であるソ連を相手に休戦協商をするのが有利だと判断した。そうすることで、中国をソ連の傀儡国にし、韓半島で独立的勢力でない国として格下げさせる効果も得られた。トルーマン政権の努力は実を結んだ。
51年4月、パリ駐在米代理大使で、ソ連専門家であるボルロンとソ連の東ドイツ管理委員長の顧問であるセメノフの接触を経て、5月31日と6月5日、ニューヨークのロングアイランドの駐国連ソ連大使の別荘で、ケナンとソ連大使のヤコブ・マリクが会った。
(つづく)


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