洪熒 本紙論説主幹
トルーマンが承認したNSC48/5は、軍事的に韓国を統一するとの約束をせず、韓国で現在のような軍事的行動方式を取り続けて、敵に最大限の損失を与え、軍事的侵略で南韓を蹂躙することを阻止せねばならず、アジアの他の地域でも共産主義の侵略能力を抑えねばならないと強調した。ワシントンでこの制限戦争の方針を固守したトルーマンとアチソンと合同参謀は、迅速な作戦を通じて戦争完了を追求するマッカーサーとの間で戦争を彷彿とさせる激しい葛藤を引き起こした。
ソ連の介入による第3次世界大戦への拡大を避けるため、韓国戦争を制限戦争として管理したいトルーマン政権は、マッカーサーに当初から慎重な作戦を注文した。トルーマンは開戦初期からマッカーサーに韓満国境と韓ソ国境付近の北韓地域の爆撃を禁じた。この指針は、先述したとおり、国連軍が38度線を突破していない段階で決まっていた。だが、迅速な勝利を追求したマッカーサーは、ワシントン当局の措置に反発した。
マッカーサーとワシントンの間の対立が最初に現れたのは、国連軍が北進する前に起きた咸鏡北道羅津港爆撃だ。米空軍機が1950年8月12日、韓ソ国境から約27キロ離れた羅津港を爆撃した。
羅津港は、ソ連からの物資が運ばれてくる重要な港だった。米国務省は、羅津爆撃は国境線に接近するなと言った大統領の指示に違反するものであると、国防省に抗議した。国務省はこのような作戦は事前に協議すべきだと主張。ところがジョンソン国防長官は、国境線を侵犯していなかったとして、事前協議を拒否した。マッカーサーも国境都市でもない羅津を攻撃するなというワシントン当局を到底理解できなかった。
李承晩がマッカーサーとともに統一を達成し、共産主義者のアジア征服を阻止するため奮闘していたとき、そしてトルーマンが共産主義の封じ込め(トルーマン・ドクトリン、1947年)の完成に取り組んでいるとき、アトリー英首相は、東アジアに集中している米軍をヨーロッパの防衛に向かわせるため努力していた。
戦況が38度線付近で膠着し始める1951年の6月23日、ソ連の国連代表だったヤコブ・マリクは、ラジオ放送を通じて休戦を提案した。「まず休戦し、両方が38度線から軍隊を撤退する停戦交渉を開始しよう」との提案に対して、英国は「英国をはじめ多くの国々が、以前から追求してき内容」と大いに歓迎した。
李承晩は6月27日、「統一以外のいかなる和平案も拒否する」との声明を発表した。李承晩は白善燁将軍を通じて、国連側代表に次の声明を送った。
「共産侵略者が韓国から追い出され、大韓民国政府の下、国土が統一されるまで戦争は続かねばならない。もし米国と国連総会が決めた制約でそれが不可能なら、敵を追い払うため大韓民国国軍に独自の北進権限を与え援助せよ」
英国は休戦に反発する李承晩を集中攻撃した。英国メディアは「李承晩は英国が認められない人物」「李博士の政府を代替できる政権が必要」「国連は韓国のような場所には二度と進んで戦いに行かない」など、記事と社説を通じて激しく非難した。
英国がなぜそこまで執拗に李承晩を攻撃したか。旧ソ連情報機関のKGBに勤務したユーリ・モディンは『私のケンブリッジの同志たち』という自伝で、ケンブリッジ大学出身ソ連スパイ、「ケンブリッジ5人組」による工作を暴露した。(つづく)