木下 公勝
「フレーブ(食パン)をよく味わってくれ」という謎のメッセージを託した金英範だが、さすがに奥さんはその意味を察知できたようだった。鞄の中には菓子や缶詰、肌着、冬用の革靴などが入っていたと私たち家族に自慢してその日は自宅に帰っていったが、翌日の夜、息子を遣いにやらせて私を呼びに来た。「お菓子や缶詰を分けてあげなさいとの夫の言葉がありますし、話もあるので、来てくれませんか」ということだった。
隣家を訪ねると、奥さんはまず先にお土産を分けてくれた。そして、私の目の前に3枚の手紙を差し出した。確かに金英範の字だった。
その手紙には、私が準備すべきもの、入国方法、注意事項、サハリンに住む金英範の異母弟の住所、氏名、電話番号、接見場所などが具体的に書かれていた。
ついにソ連に行くことになったのだ。この期に及んで想像してみると、嬉しさより不安が勝り、胸がドキドキして体が震えた。
中国の東北地方には何回か行ったことがあったが、ソ連に行くとなると、イメージがまったく違った。言語、容姿、街並み、地形など、まったく体験はなかったし、ソ連での居場所も担保されていない。知人もいないのである。その一方で、現地に到着すれば必ず無事に事は運ぶと思った。金英範の手腕と能力をよく知っていたからだ。
私はその年の5月中に行く決心をした。まずは事前の準備を整えなければならない。約2カ月、秘密裏に万端の準備をする。
私はまず、清津市松平区域にある外国人専用の「船員クラブ」と外貨商店に行った。持っていた日本円7万円を旧ソ連のルーブルに両替するためである。事前にルーブルが必要であったし、ソ連の両替所では言葉が通じないと思ったので、清津に行ったのである。
ソ連の商店やホテル、レストランで日本円を使うのは困難だった。秘密警察KGBの目もあり、危険でもあった。清津の外貨商店は当時、東欧諸国専門店で、在日帰国者が日本円で利用する「外貨商店」は清津市内中心の浦港区域にあった。浦港はルーブルを取り扱っておらず、日本円とドル、英国ポンドだけしか使えなかった。
私は用事を済ませて家に帰った。そして暇さえあれば、高校時代に習ったロシア語の教科書や辞書を見て、主要な単語を頭に入れた。学生時代はロシア語に興味がなく、勉強にも熱心ではなかった。しかし金英範に会ってからというもの、興味のある単語は頭に入れるようにしていた。そのため、まったくゼロからのスタートではなかった。
現金の入手以外にも、準備しなければならないことはあった。それらはすべて金英範の手紙の内容どおりに着々と進めた。
手紙を受け取ってから約2カ月後、ついに行動を起こす時が来た。私はまず、清津駅から北朝鮮の北端にある羅津駅まで行った。職場には、痔の手術のため医大病院に1カ月入院すると説明した。病院への手術依頼書も、診断書も事前に準備した。区域担当保衛員にもその内容を報告した。難なく承諾してくれたので安心した。
もちろん、痔の手術を受けるというのはでたらめだ。偽の診断書は、清津医学大学の外科医だった帰国者に依頼した。その医師と私は帰国直後から親交を結んでいた。彼の父親は在日朝鮮人で、母親は日本人だった。父は早稲田大卒、母は青山学院大卒という、私のいた地方では珍しいインテリ家族であった。
私が診断書を書いてもらったのは長男の医大博士で、次男は中学校の教諭をしていた。炭鉱町唯一の東京出身者で、親子ともども豊かな知性と高い品格を身につけていた。母親は、帰国時にオルガンまで持って来るほどの音楽愛好家だった。しかし、帰国から1年後、母親は地元の中学校の音楽室にオルガンを寄贈してしまった。本心はともかく、忠誠心を示すためだったのだろう。その「愛国的で良心的」な行いが、息子たちの未来によい影響を及ぼしたと思う。(つづく)